討ち入りを仕掛けたのは幕府だった
年末と言うことで今回のテーマは忠臣蔵。忠臣蔵と言えば浅野家藩士による吉良邸への討ち入り事件であるが、この事件は実は日本中からその顛末が注目されており、後に歌舞伎の演目になったというような衆人環視の事件でもある。
さて佐藤二朗言うところ、割と大胆な説を出してくるということがあるというこの番組が掲げた今回のテーマは、この討ち入りには実は仕掛けた黒幕がいるという話で、それは幕府であるという大胆な説・・・ってオイオイ、そんなもの大胆でも何でもなくて、随分昔から言われていて当たり前の考えである。何か周回遅れで胸を張られたようなマヌケさがあるのであるが、まあそれはともかくとして、とりあえず内容に入る。
事件後に辺鄙に移転させられた吉良屋敷
赤穂浪士の討ち入りについて幕府が仕掛けたとされる理由は、松の廊下事件のあった後、吉良屋敷が移転させたられたことである。それまでの江戸城にかなり近いところから、急に辺鄙の本所に移転されている。しかも当時の本所はまだ市街整備の途中で、中央の目も届かず治安もそれほど良くなかったところだという。これは浅野家藩士による吉良邸討ち入りを誘っているのではとは話。
さらに当時の大名屋敷の移転を見ていたらこの移転の異常さが分かるという。当時の大名や幕臣達の屋敷の移転を調べてみたら、大体が出世に応じて江戸城に近い場所の屋敷に移転しているケースが多く、吉良邸のようにそれまで江戸城の近くから辺鄙にいきなり左遷のように飛ばされるのは異例中の異例だという。さらにこの事件では吉良上野介はお咎めなしということで、謂わば無罪放免されているのである。それにもかかわらず大不祥事でもしでかしたかのような扱いである。しかも幕府は吉良邸の隣の屋敷からの「もし赤穂浪士の討ち入りがあった時にはどう対処するべきですか」との質問に対して、「放っておけ」と答えていたという。さらに赤穂浪士は多くが江戸に潜伏していたが、実際のところはそれがバレていないはずがないという。バレているのに幕府はあえて黙認していたのではないかという。
世論の動向を見定めて討ち入りを決行した大石
また討ち入りを行う側の大石内蔵助も、世間に対するアピールも考えていたという。彼がもっとも気にしていたのは浅野家の名に傷をつけないかだったという。当初大石はお家再興を最優先とし、今にも激発しそうな江戸の家臣達に対して頻繁に手紙を送っては宥めていたという。しかし浅野大学が罪人として罰せられるに及んでお家再興の目はなくなり、討ち入り方向に動くとことになる。しかしこれは武断政治から文治政治に向かう方針を掲げていた幕府の方針に反することになり、下手をするとお家の看板に泥を塗るのではないかということを気にかけていたという。ただその一方で大石は市民の世論にも配慮しており、江戸庶民が仇討ちを望んでいる空気を読んで討ち入りを決行しているという。なお大石の書状の筆跡には彼の不動心が覗われるとしているが、これはどうでも良いこと。
討ち入り後の奇妙な対応にも覗える幕府の真意
なお討ち入り後の幕府の対応も奇妙だったという。赤穂浪士は吉良を討ち取った後、藩主に報告するべく泉岳寺に向けて行進をしているわけだが、本来なら集団テロリストとして取り押さえられても不思議でないのに、この時に警備の役人は茶を振る舞うなど咎める様子が全くなかったのだという。これも明らかに幕府が黙認していたことだという。大石達を持ち上げることで相対的に上野介を悪者にすることに目的があったのだという。
では幕府がなぜここまで上野介を冷遇したかであるが、実は上野介は当時の幕府にとって既に邪魔な存在となりつつあったからだという。上野介は高家として幕府の礼儀作法を指南すると共に、朝廷との間に立って取り持つ役をなしていたのだが、朝廷と直接の関わりを増やしたいと考えていた幕府は上野介が邪魔になっていたのだとことである。実際に事件の後に吉良家は高家の役職を解かれ、代わりに若手の公家を起用したという。だから上野介が浅野家家臣に討たれると幕府にとっても好都合だったのだ。さらにはあわよくば、上野介の息子が藩主となっていた上杉家15万石もついでに取りつぶせたらという思惑さえあったのではないかという(だからこそ討ち入りの報に上野介を助けに行こうとした藩主を、家老が体を張って押しとどめたというエピソードも残っている)。実際に討ち入りの後、幕府は吉良家を取りつぶしてしまっている。
幕府が積極的に討ち入りをさせようとしていたかはともかく、討ち入りを黙認するつもりだったのは間違いない。それは上野介が邪魔になっていたというのはあり得るが、何よりも明らかにこの時の綱吉の裁定が偏った誤ったものだったからだろう。内匠頭が乱心したのだったら上野介は被害者ということでお咎めなしで、内匠頭は強制隠居の上で赤穂藩は次の藩主を立てる(この場合は浅野大学になったろう)というのが当時の決まりである。これが一番穏便な決着であり、だからこそ「浅野殿ご乱心!」なのである。また内匠頭が乱心でなかったというなら両者の喧嘩であるから、当然のように喧嘩両成敗となるのが当時の決まりであった。
しかし大事な母親の叙位のための根回しのための勅使の接待を台無しにされたマザコン綱吉がぶち切れて、冷静さを完全になくした挙げ句に下した裁定が、内匠頭だけが一方的に切腹で赤穂藩はお取りつぶしという非常識極まりないものとなってしまった。この裁定について頭の冷めた綱吉自身が後にどう思ったかは分からないが、少なくとも幕閣連中は「間違ったまずい裁定だ」と感じていただろうし、そのことは市中の誰もが共通認識として持っていたろう。だからこそのガス抜きとして、討ち入りを黙認したというところだろう。
忙しい方のための今回の要点
・赤穂浪士の討ち入りであるが、これは実は裏で幕府が画策した物と考えられる。
・事件の後、吉良邸は江戸城近くから辺鄙な本所に移転されており、これは明らかに討ち入りを誘うものであったという。
・一方の大石は浅野家の名を傷付けないことを最優先にしており、最終的には世論の動向を読んで討ち入りに踏み切ったという。
・さらに討ち入り後の赤穂浪士の泉岳寺への行進について、幕府は一切黙認している。
・幕府は大石達を持ち上げることによって、上野介を悪としたかったのだという。それは朝廷との仲立ちをする高家の吉良家が邪魔になってきており、排除したかった意志が幕府にあったからだという。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・まあ幕府黒幕説は最近に言われたことではありません。私も幕府は「こうなってしまったら討ち入りさせるしか世論の収めようがない」と判断したのだと見ています。そうでもしないと幕府のお裁きに対する不信感の方が盛り上がったでしょうから。
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