教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

12/22 BSプレミアム 英雄たちの選択 「明治政府を襲った試練~伊藤博文とロシア皇太子襲撃事件~」

明治日本を震撼させた大事件

 大日本帝国憲法も定めて、近代国家に向かっての道を歩み始めた日本。しかしそこに日本の存立を脅かしかねない大事件が発生する。その難局で日本はどういう選択をしたか。その事件とはいわゆる大津事件である。これは日本を親善訪問したロシア皇太子のニコライに、それを護衛していた巡査の津田三蔵が斬りつけたという大事件である。

 1891年、シベリア鉄道がウラジオストクまで開通したのをニコライが視察に訪れたことから、そのついでにニコライの日本訪問が実現した。列強の一角に食い込むことを目指していた日本は国を挙げてニコライを大歓迎し、ニコライは日本の各地を見学して回った。そして5月11日の昼過ぎ、ニコライが大津にさしかかった時に事件は発生した。この時に津田三蔵が人力車に乗っていたニコライに対していきなりサーベル(とは言っているが、実際は日本刀の脇差しである)で斬りつけたのである。なお津田三蔵の動機は未だにハッキリしておらず、ニコライが日本侵略のためのスパイだったと思い込んでいたという説やら、精神疾患説まで諸説存在する。

 この事件は直ちに政府に伝えられ、政府は震撼することになる。当時のロシアは世界最大の陸軍国であり、さらに海軍力一つとっても、まだまともな戦艦を有していない日本とでは比較にもならない状態だった。もしニコライが亡くなりでもして戦争でも起これば、日本はひとたまりもないのは明らかだった。また巨額の賠償や領土の割譲が要求される可能性も存在した。まだ歩き始めて間もない明治政府にとっては大問題であった。

 

 

急遽明治天皇がニコライと面会、政府は対応を協議する

 松方正義総理を中心に緊急会議が行われ、この時に箱根に逗留中のロシア通の伊藤博文が助力を仰がれる。自らサンクトペテルブルクを訪問してロシアの国力を身に染みて熟知していた伊藤は、急遽東京に戻ると深夜の一時に明治天皇に謁見する。明治天皇は自らニコライを見舞うために京都に出向く意向で、伊藤にロシアとの関係が破綻しないように万全の手を打つように命じる。

 翌早朝、明治天皇は汽車で京都に向かう。皇室外交で事態打開を探ったのである。翌5月13日に京都の常磐ホテルで明治天皇がニコライと面会、ニコライはこの席で、この一件で日本を恨むようなことはないと明治天皇に告げたという。ニコライは日本人の各地での歓待に感動していたのである。これを聞いて明治天皇と伊藤は「一と先安神(一先ず安心)」したという。だがロシア本国の正式見解は出ておらず、伊藤は対応を迫られることになる。

 この衝撃的な事件のニュースには翌日には世界中を駆け巡ぐり、ロシアでは心配した市民が王宮を取り囲むことになる。またロシアの報復を恐れ、津田三蔵を憎む声は日本中に満ちあふれたという。山形県のある村では「津田」の姓を名乗ったり、「三蔵」と命名することを禁ずる条例まで制定されたという。

 

 

法律を守るか、外交を優先するかの悩める選択

 ここで問題となったのは津田三蔵の処分であった。当時の法律では被害者が亡くなっていないことから無期徒刑が限度であった。そこで政府は天皇に対して危害を加えようとした場合の大逆罪を適用して死刑にしようと考えた。しかしこれを伝えられた児島惟謙大審院院長(今の最高裁判所長官)が猛反発する。法を曲げることはできないと拒絶したのである。これに対して松方総理は法律よりも国家の方が重要だと声を荒げるが、児島は頑としてこれを拒絶したという。

 実は青木外務大臣と駐日ロシア公使のシェービチの間で、ニコライの身に何かあった時には大逆罪を適用するとの密約があったために、政府は引くわけにはいかないという事情があったという。しかし伊藤にとってはさらに難しい問題があった。当時の日本は不平等条約の改定に取り組んでいた時であり、井上毅などは刑法を曲げることがあっては将来永久に刑法で外国人を統御することが出来なくなると主張していた。

 ここで伊藤の選択である。刑法を曲げて大逆罪で津田を死刑にするか、大逆罪の適用は避けて別の方法を模索する(天皇の緊急勅令などの形があり得た)かである。なおこの時、後藤象二郎などは刺客を雇って犯人を殺害しろとまで言ったらしいが、さすがにこれは伊藤も拒絶したという。

 番組ゲストは全員「大逆罪を適用する」であったが、磯田氏のみは適用しないであったが、ニコライの様子を見ているとそこまで要求してくる可能性はないとして、ヨーロッパの貴族の騎士道精神に期待しようとのこと。

 

 

伊藤は大逆罪適用を選択、しかし事態は想定外の方向へ

 伊藤の元にロシア皇帝からの今回の件については賠償を請求しないとの意向が伝えられる。そこでロシア公使のシェービチに意見を求めると「無期徒刑ならばロシアと日本の間にどんな重大なことが起きても保証できない」との回答を得る。これで伊藤は大逆罪の適用を選択する。これで大津の地方裁判所から審議が取り上げられて、大逆罪を裁くことが出来る大審院に変更されることになる。そして政府は児島に大逆罪による死刑の適用が伝えられ、担当裁判官達にも司法省からその旨の説得が行われる。そして大審院法廷が開催されることになるが、ここで大津に乗り込んだ児島が政府の要求に屈しないように裁判官達を説得して回るという行動に出る。児島の介入に政府は慌てて西郷従道を送るが、児島は頑として聞き入れず、結局裁判は謀殺未遂で無期徒刑の判決が下る。

 伊藤はやむなくこの結果をロシアに送る。しかしこれに対してロシアからは皇室はもちろん国民も納得しているとの返答を送ってくる。ロシアがこの結果を受け入れた理由として、ニコライの日本に対する心証が非常に良かったことと、当時のロシアはちょうどヨーロッパ内の同盟国がない状態であり、ここでアジアで事を構えることを望まなかったからだという。この結果については、後に横浜居留地の英字新聞に「もし刑法の明文を曲げて無理な解釈を下していれば、日本は世界の信用をさらに大きく失うところだった。そうならなかったのは幸いである。」との記事が出たという。結果として日本は近代国家であることを示すことが出来たのである。

 

 

 というわけで結果オーライであり、小島は司法の独立を守った人物として評価されたのであるが、その一方で「確かに司法の政府からの独立を守ったが、裁判官に対しての介入をしており、裁判官の独立を守っていない」との批判もある。これは今でも法学の世界で語られる話である。

 なお番組では何だかんだ言いながらも、伊藤はロシアなどの出方を覗ってその落としどころを探っていたという話が出ていたが、そんなところも確かにあったろう。伊藤はかなり強かな政治家であるので、その辺りの計算は相当にしていたはずである。

 なお津田三蔵の動機が未だに不明なのは、彼がこの後まもなく獄死しているせいでもある。事態が事態だけに謀殺説もあったようだが(実際に政府内で謀殺勧める声もあったのだから)、当時の報告書によると病死だったらしい。津田三蔵はニコライに斬りつけた後に取り押さえられる際に怪我をしたりもしてるので、その後の経過が良くなかったらしい。私は、津田は精神錯乱の挙げ句に妄想的な陰謀論にハマったという説を採っている。今でもよくいる「中国が攻めてくるぞ」といつも言っている輩の類い。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・来日中のロシア皇太子ニコライが、護衛の巡査である津田三蔵に斬りつけられた大津事件は、近代国家への道を歩もうとしていた日本にとって存立の危機につながる大事件となる。
・政府は急遽対応を協議、明治天皇も自らニコライの元を見舞いに訪れる。その席でニコライから今回の件で日本を恨むことはないという返答を得られるが、まだ対応によってはロシアとの戦争などの可能性は残っていた。
・当時の日本の刑法では津田は無期徒刑であったが、政府はロシアの反発を防ぐために強引に大逆罪を適用して死刑にしようと決定する。
・しかし児島惟謙大審院院長(今の最高裁判所長官)は法を曲げることは出来ないと、司法の独立を主張して政府の要求を頑として拒絶する。
・政府は最終的に裁判官達に直接の圧力をかけるが、これに対して児島は自ら裁判官達に政府の要求に屈することのないように説得、結局無期徒刑の判決が下ることとなる。
・政府はやむなくロシアにこの結果を伝えるが、政府の案に反してロシアからは結果に満足しているとの返答が得られ、さらに諸外国からは日本は司法の独立を守ったと評価されることになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・結果オーライみたいな形ですが、実際には水面下ではかなりの腹の探り合いはあったでしょう。外交能力に関して言えば、日本って段々と劣化していっているんだよな。まあ修羅場を切り抜けてきた連中がいなくなって、苦労知らずの世襲のボンボン政治家や、巷のことを全く知らないエリート官僚が中心になっちまったからだろうな。

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