未知の世界に挑んだ遣唐使
日本が進んだ唐から最新鋭の文化を導入すべく送り込んだ国家使節が遣唐使である。今回はその遣唐使について。なお番組では遣唐使は当時の全く未知の土地へ向かっていくという意味で宇宙飛行士に喩えているが、まあ分からないでもないが、それは余計な話。
番組ではまず、当時の遣唐使がどんな船で海を渡ったかを見るために、平安コスプレした森田洋平アナが平城京跡歴史公園を訪れている。ここには復元された遣唐使船が展示されている。
森田氏は「意外と大きい」と言ってるのだが、私が見た時の感想はそれと真逆で「かなり小さいな」というものであった。ちょっと大きめの漁船というイメージである。ここに乗員が160人とのことだからかなりの密集である。
一番偉い遣唐大使の部屋で4畳半ぐらいだから、ほとんどの面々は船底で雑魚寝とのこと。食料は干し飯をお湯で戻したもの。森田氏は「美味しいというわけでもないが、意外といける」とのことである。これにおかずの類いは日持ちのする干し物ばかり、水は航海が長期に及ぶ時には1日0.7リットルとかなり少なめである。なお森田氏は「このぐらいなら僕は十分に我慢できる」と言って、案内していた奈良文化財研究所の研究者が「遣唐使候補」と驚いたような呆れたような反応をする下りがあった。どうやら森田氏は未開地耐性が十分に高そうなので、今後、アフガンでもアフリカでもどこでも活躍できそうである。
意外と成功率の高かった遣唐使
なお遣唐使船と言えばとかく難破してなかなか唐にたどり着かなかったというイメージがあるが、実は失敗が多かったといわれていた唐からの帰りの航海でも76%が成功しており、行きの航海となると92%も成功しているという。恐らく遣唐使と言えばとにかく難破するというイメージの定着に大きく影響したのは、日本に来ようとして2度も難破して、ついには弟子の命と自らの視力を失ってしまったという不屈の人(と同時にかなり不運の人でもある)鑑真のせいのような気がする。実際に私も鑑真のエピソードを聞いた時には、「遣唐使で普通に帰ってきている人も少なくないのに、この人ってどんだけ運がないの?」と思ったのが本音だったりする。もしかして山中鹿之助のごとく「我に七難八苦を与えたまえ」と仏にでも祈ったのか?
なお遣唐使がどのように航海をしたかを当時の気候を分析することで調査している。その結果、往路については8~9月が一番風がよくて、4日ぐらいで到着できるという。で、実際に当時の遣唐使の記録を見るとこのシーズンに航海しているらしい。ということで風向きの情報などを心得た上で航海しているのだという・・・のだが、このシーズンって言うと、一つ間違うともろに台風にぶつかるんだよな。
また遣唐使船を分析すると、当時の遣唐使船には隔壁が補強として入っており、そのことによって船体の強度が大幅に上がっているという。つまり船自身もかなり先端技術で作っているものであり、それらの最先端造船技術は中国で習得したものであろうとしている。
留学生たちのミッションと費用稼ぎのアルバイト
当時の長安は人口100万の国際都市であり、店頭には日本人の見たこともないような野菜が並んでいたりするというまさに異世界だったらしい。なお日本の使節は唐から滞在費として絹を支給されていたという。また唐に渡った使者などは1年で帰還するが、留学生などは次の船で帰るので20年ぐらい滞在することになったという。
その間に留学生たちは唐の書物を必死で集めるのであるが、当時は出版技術があったわけでないので書物は非常に高価であった。そのためにそれらを調達する費用の調達が大変だった。このことから当時の留学生は資金調達のためのアルバイトをしていたという。
それに関しての資料が中国で見つかったという。それは吉備真備の手による墓誌の石版。墓誌とは墓に置くその人の業績などを記した石版らしいが、当時の唐は文字を書ける人が限られていたために、文字に熟達している遣唐使の留学生などが手がけたのだとのこと。特に吉備真備はかなり書に長けていたので、これは非常に効率の良いアルバイトだったという。
こうして遣唐使がもたらした書物は日本の文化の発展を促す。大宝律令などは唐から持ち帰った法典を元にして制定されたものである。当時の唐で正式に出版されていた書物の半分に当たる1万6千巻もの書物が日本に渡っていたという。だから唐から日本に及ぶ交易ルートを「ブックロード」と呼ぶ研究者もいるとか。なお輸入された書物の中には恋愛小説のような、向こうではあまり高く評価されていなかったが、日本人には好まれたという書物もあり、これが後に日本の源氏物語などの文学に影響を与えているという。
遣唐使が持ち帰ってしまった厄介なもの
このように文化的に有益なものを多数持ち帰った遣唐使であるが、同時に持ち帰るべきでないものまで持ち帰ってしまったという。それが天然痘などの疫病。735年に九州で天然痘が流行、それが瞬く間に日本各地に広がりパンデミックとなったという。実際にこの時に日本の人口の1/3が亡くなったとか。これで人々はパニックとなり、日本の政情不安定につながった。この災厄に立ち向かったのも吉備真備などの遣唐使であり、中国から輸入した疫病除けの神などを祀って人々の不安を鎮めようとしたという。また再建のための諸政策なども実行した。というわけで、遣唐使に行くような人物はそもそもエリートであったというわけである。
なおこの時の遣唐使の活躍については、以前に「英雄たちの選択」で、やはり唐帰りの橘諸兄を中心に描いており、この番組ではその辺りは完全に省略している。実際に遣唐使代表として名が上がったのも吉備真備であり、橘諸兄の「た」の字も出てこないので、墾田永年私財法も吉備真備によるもののようになってしまっている。
以上、遣唐使について。まあこれと言って新しい視点はありませんが、総花的に諸々の情報を散りばめたのは悪くはないです。吉備真備が唐でアルバイトをしていたというのはなかなかに斬新な情報でした。
ちなみに中国から疫病除けの神様を導入するのが疫病対策になるのかと現代人ならツッコミたいところですが、当時としてはこれは仕方のないところ。一応、大皿文化を小分け文化に変えるという現代でもある程度は通用する対策も導入していたとのことで。まあ役に立つか立たないかはともかく、当時の為政者はとにかく疫病の流行を抑えようとしているのは確かであり、今日の為政者のようにこの機会に自分の利権確保を図ろうとか、ドサクサ紛れの憲法改悪をしようとかしていないだけ、むしろ今よりもまともではある。
忙しい方のための今回の要点
・当時の最新文化を唐から取り入れるために日本が送り出した使節が遣唐使であった。
・遣唐使はとにかく難破したとのイメージが強いが、実際は航海術も長けていて、船も当時の最先端のものを用いているので、一般のイメージ反して、実は大部分の航海は無事に成功している。
・当時の留学生は次の船まで20年ほどを滞在し、その間に書物を大量に集めている。高価な書物を集めるための資金を稼ぐために、墓誌を書くなどのアルバイトもしていたらしい。
・こうして日本には多くの書物が持ち込まれたことから、このルートをブックロードと呼ぶ研究者もいるという。
・しかし遣唐使は同時に天然痘などの疫病も持ち込んでしまい、日本でパンデミックが発生した。これに立ち向かったのも遣唐使などのエリートである。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・海外留学といえば、昔からエリートがおこなうものでした。知らない間に日本では「自分探し」とかいう現実逃避でとりあえず海外とかいうのが増えましたが。まあ当時は確かに命がけで渡ってましたから、気軽に自分探しなんて言っている余裕はないですが。
・と言うわけで、今回の肝は「数年後には世界の僻地で活躍する森田アナの姿が見られそうである」と言うことで(笑)。
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