大英帝国の繁栄を築いた女王
大英帝国の女王として、さらに母として妻として生きたヴィクトリア女王は、大英帝国の繁栄の象徴として今日でも国民的人気は高い。そのヴィクトリア女王の生涯について紹介する。
ヴィクトリアは1819年、イギリスの国王達が代々暮らしてきたケンジントン宮殿で生まれた。彼女は宮殿の中で何不自由なく暮らしたが、生まれてすぐに父が亡くなったことで王位継承権3位となり、母から幼い頃から王族としての教育を強制された。常に母の監視のある極めて窮屈な生活だったという。そして彼女が11才の時、国王が亡くなってヴィクトリアの伯父である64才のウィリアム4世が即位する。これでヴィクトリアが継承権第1位となる。ヴィクトリアは自分は女王を出来ると言う気持ちはあったと言うが、それを阻止しようとしたのは実の母だったという。彼女は18才未満のものが国王となった場合に設けられる摂政に就任し、全権限を掌握しようと考えていたという。ヴィクトリアはそんな母の目論見に辟易し、国王も彼女の母を嫌ったという。そこで国王は何が何でもヴィクトリアが18歳になるまで生きようとしたという。そしてヴィクトリアが18歳の誕生日を迎えた1ヶ月後に国王が死去、王座はヴィクトリアに移ることになる。彼女は全力挙げて国に尽くすことを誓ったという。
自ら結婚相手を選んだ女王
彼女は親子ほど年の離れた宰相のメルバーンの力を使って国務を始める。まず彼女に求められたのは後継ぎの確保だが、彼女は政略結婚には抵抗があった。しかしメルバーンがしつこく勧めるので1人だけ会うことにしたがそれが母方の従兄弟のアルバートで、実は彼女は以前に彼と会ったことがあり、その時に好意を抱いていたという。アルバートと再会したヴィクトリアは彼に対して自ら求婚する。この前代未聞の女王からプロポーズの結果、彼女は20歳で結婚することになる。この時に彼女は胸にはアルバートから送られたサファイアのネックレスを付け、そして国産の白のシルクのウェディングドレスを身につけたという(イギリスの経済が良くない時期だったので、国産品振興という意味もあったという)。
ヴィクトリアは国王として多忙な生活を送りながら、アルバートとの間に4男5女を儲ける。最初はドイツ人のアルバートは政務に参加することを拒絶されたが、彼女がしょっちゅう妊娠で政務を休まざるを得なくなることがあったことから、その内に会議にアルバートが代理で出席することに誰も文句を言わなくなったという。そして2人は王室外交なども行っていた。アイルランドでジャガイモ飢饉が発生した時は、アイルランドに私財を寄付し、輸入関税を廃止して穀物を安く輸入できるようにして被害を食い止めようとした。これらが現在につながる王室の慈善活動の原型となったという。まあそのような中で国民のアルバートに対する人気も上がってきたという。そんな彼の人気を不動にしたのが万国博覧会だという。アルバートはこれの実質的責任者であった。このイベントは大成功した。
内外で活躍するが、家庭に訪れた不幸
また対外戦争ではクリミア戦争でオスマンと共にロシアに宣戦、ヴィクトリアは王室の母として活躍し、前線で戦う兵士たちにクリミア従軍記章という勲章を与えた。そしてイギリスはこの戦争で勝利する。ここで彼女はナイチンゲールの活躍に焦点を当て、当時は女性に勲章を贈る前例がなかったことから、彼女に勲章型のブローチを与える。
その一方で家庭生活も重視していた。彼女はできる限り自分で子供の面倒を見たという。女王一家の肖像は理想の家族像として国民達に広がったという。子供たちは各地の貴族と結婚させたが、悩みの種は長男のバーティだった。彼は18歳を過ぎて王位継承権第1位になったが、勉強嫌いで女癖が悪く遊び呆けて大学の校則破りを繰り返していた。
そして1861年、家庭の暗雲がたなびく、42歳になったアルバートの体調が思わしくなかったのだ。多忙のための過労もあったという。そんな中、彼が総長を務めるケンブリッジ大学でバーティが校則を破ったことを聞き激怒、止めるのも聞かずに土砂降りの雨の中を大学へ出て行った。しかし学校から戻ったアルバートは腸チフスで危篤となる。そしてそのままアルバートは息を引き取る。
失意から立ち上がってイギリスのために尽くす
ショックを受けたヴィクトリアはロンドンの宮殿を離れて別荘に引き籠もってしまう。また間接的に夫が亡くなる原因となったバーティには辛く当たり、彼が政治に参加することを許さなかった。3年が経過し、いつまでも喪に服している彼女には市民からの批判が湧き上がってきた。しかし1871年長男のバーティが腸チフスで危篤となる。ヴィクトリアは駆けつけて必死の看病を続ける。そしてバーティは奇跡的に回復、この朗報に王室に対する世論は好転、ヴィクトリアも政務に復帰する。議会内で改革派のグラッドストンと保守派のディズレーリが首相の座を争う中、彼女は保守派のディズレーリを支持、彼が首相に就任するとスエズ運河の経営権の取得、インド皇帝への就任などイギリスの国力を強めることに力を入れる。これは混乱していたインドを安定化させることであり、君臨すれども統治せずの姿勢であったという。
63年の治世の間にはイギリスにはヴィクトリア様式と言われる文化が花咲く。またアフターヌーンティーの習慣が出来たのもこの時期だという。また彼女の子供達が各地の王族の元に嫁いだことでヨーロッパも安定化していたという。そして在位60年の大祝典が行われる。彼女は歴代最長在位の王となっていた。そして80を過ぎると議会にほとんど出席しなくなったヴィクトリアだが、81歳で脳出血で倒れる。しかし彼女は「まだまだやらなければならないことがあるので死ねない」と言い残して亡くなったという。
とにかく国王としての意志の強い人物であったが、その一方で家庭も大事にしたというのはなかなかに驚き。仕事に忙しい者は大抵は家庭はなおざりになるのだが、それは避けたかったのだろう。ただそのことは肉体的にはとんでもない負担になるはずだが、彼女はそれに耐えるだけ頑健だったと言うことで、これは比較的虚弱が多い王家には珍しい気がする。
しかし夫には早々と先立たれ、自ら育てたはずの長男はボンクラとは、すべてが順風満帆でいったわけではなさそうである。それでもイギリスの黄金時代を築いたわけであるから、彼女の手腕と言うよりもそういう時代背景と共に慕われることになったのだろうと思われる。
忙しい方のための今回の要点
・ヴィクトリアは18歳で女王として就任する。最初は結婚を嫌がったが、母方の従兄弟でドイツの貴族の子弟のアルバートに好意を持って自らプロポーズする。
・ヴィクトリアはアルバートとの間に4男5女を儲ける。最初はドイツ人であるアルバートは政務から遠ざけられたが、ヴィクトリアが出産のために度々公務を離れざるを得なくなり、結局はアルバートが代理を果たすことが多くなっていく。
・さらにアルバートは万国博覧会の責任者として大会を成功に導いたことで評価が上昇する。
・ヴィクトリアは多忙な公務の傍らでも生活を重視し、子供たちをできる限り自らの手で養育しようとした。
・対外的にはクリミア戦争で勝利するなどイギリスの国威を強める。
・しかし長男のバーティに不良行為が多いのが悩みだった。そんな中、夫のアルバートが体調を崩し、大学の校則違反をしたバーティに説教するために雨の中出かけたことが切っ掛けで腸チフスで危篤となり、そのまま亡くなってしまう。
・ヴィクトリアはしばし別荘に籠もるとともに、バーティを完全に政務から遠ざける。いつまでも喪に服する彼女に対する国民の不満が高まってきた頃に、バーティが腸チフスで危篤となる。
・ヴィクトリアは駆けつけて必死の看護をし、バーティは奇跡的に回復し、これが世論の好転につながる。政務に復帰したヴィクトリアは保守派のディズレーリと組んでスエズ運河の国有化、インドの皇帝への就任を行ってイギリスの基盤を固める。
・在位60年にはそれを記念する大々的なパレードがなされる。80才以降は引き籠もって政務から遠ざかった彼女は、81才で脳出血で倒れて亡くなる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・なかなか烈女でありますが、エリザベス女王ほどの烈女のイメージがないのは家庭を持っていたからでしょうね。当時のイギリスの良き家庭のイメージになったようなところがあります。もっとも金持ちの馬鹿息子というのは、古今東西定番の悩みのようですが。
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