教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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3/16 BSプレミアム 英雄たちの選択 「千年のまなざしで中国をみよ 内藤湖南が描いた日本と中国」

中国の理解に挑んだ内藤湖南

 日中関係がドンドンと悪化していく昭和初期、その中で中国を理解しようと研究した内藤湖南について。

 湖南は幕末の1866年に秋田県鹿角市の儒学者の家に生まれた。しかし5才の時に戊辰戦争で盛岡藩が没落して内藤家も禄を失い貧しい暮らしを余儀なくされる。そんな中でも湖南は儒学者として学問を叩き込まれたという。湖南は8才で論語を読み終えるほどの聡明さを示したという。しかし湖南は漢学に飽き足らなくなり、秋田の師範学校に進むと最先端の学問として英語に興味を示したという。1887年に秋田から上京すると、英語学校に通いながら西洋の学問を独学、一方生活費を稼ぐために働いた雑誌社で湖南の実力は認められていく。海外の記事についての論評なども掲載していたという。湖南はジャーナリストとしての力をつけていく。その湖南が注目していたのは清国だったという。

 当時の日本は中国を時代遅れの国と見下す考えが強かったが、湖南は文明を相対的に捕らえていた。中国は特色有る文明を持ち、単なる守旧ではなく西洋との接触で中国も進化してきたと考えた。中国に対して日本が何を出来るかを考えていた。

 中国に渡った湖南は中国の人々の漢文で情報を交換し、改革論者などとも交流した。中国の改革論者には経世思想があったという。歴史を実証的に検証することで現実社会の問題を解決すると言うものである。湖南はそれらも吸収する。

 

 

中国の研究者として「支那論」を発表する

 日本軍が奉天を占領すると、湖南は現地に飛んで清朝発足の地に残っていた文献を実証的に研究する。そして自他共に認める中国通となった湖南は43才で京都帝国大学教授となる。異例の大抜擢である。

 中国では辛亥革命が勃発、清朝が崩壊する。南京を中心に中華民国を建国した孫文は共和制を目指したが、国内融和を目指して臨時大総統の座を北部を支配している軍閥の袁世凱に渡す。しかし袁世凱は権力を握ると革命派を弾圧して革命の成果をなし崩しにしてしまう。中国情勢が混沌とする中でこれから中国がどうなるかを湖南が筆記したのが代表作である「支那論」だという。湖南はこの中で近代中国の起源がどこにあるかを追求している。

 湖南の考えでは近代中国は遡ること1000年、五代十国から北宋に至る時期に起源を発するという。これが唐宋変革論という学説である。この時期は君主独裁制が確立したことだという。それまでの君主は貴族の中から登場したので貴族によって権力を制限されていたが、貴族が没落したことでこの時期から君主は人民から隔絶したものとなっていたという。君主の下に官僚が存在し、官僚は君主の命で任地を転々とするので地域に尽くすつもりはなく、無責任に私腹を肥やすだけになった。そして下の不満が強まると君主が入れ替えられる形となる。この時に見逃せないのが人民の力で、国が信用できないので平民たちは地縁・血縁・職業組合に頼り、これらが暮らしのすべてを自力救済するようになった。湖南が喝破した中国社会とは強大な権力を有する君主と、自立した平民社会であった。だから中国でこれらの組織を元にすれば決して自治制が不可能ではないと考えた。これは湖南による政策提言であった。

 

 

しかし混沌とする中国情勢の中、迷走を始める

 しかし中国の方向は湖南の望むものとは違う方向に向かい始める。第一次世界大戦勃発で大陸権益拡大の好機とみた日本は、山東省のドイツ租借地を占領するなど中国への進出を強める。これらが学生などによる反日デモにつながる。学生たちは自らの伝統文化が近代化を阻んでいるとして攻撃、西洋文化の導入を主張する。

 一方で湖南は中国書画の鑑賞会を開くなど、中国文化への深い傾倒を見せていた。湖南にとっては、自らの文化の価値を理解していない学生たちの浅薄な主張は許しがたいものがあった。そしてその動きの背後にアメリカの存在を感じていた。中国に対して影響力を強めるアメリカを湖南は警戒し、後に発表した新支那論ではアメリカを批判した。アメリカは歴史を重視せず、従来の関係を帳消しにする国であると記した。

 ここで湖南は日本が中国の政治に積極的に関わるべきとして、政治軍事などの最も低級なものは日本のような幼稚な時代にある国に向いていて、中国のような長い文化を持った国は政治に興味を失って芸術に傾くのは当然として、日本が積極的に中国の政治に関わるべきということを訴えた。

 

 

 しかしこれはかなり過激で議論になるべきものである。番組ゲストも言っていたが、つまりは日本の中国侵略を正当化する論になるからである。どうも私も中国がアメリカに乗っ取られるという脅威の中で、湖南もいささか迷走したのではという感が強い。「アメリカに乗っ取られて滅茶苦茶にされるぐらいなら、同じ東洋の日本が押さえてしまえ」というような雰囲気を感じる。「切羽詰まっていた」という話がゲストからも出ていたが、多分そうであろう。

 昭和元年に大学を定年した湖南は木津川市の瓶原に、理想的な東洋の暮らしを送りたいと恭仁山荘を建ててそこで暮らす。ここには5万冊もの書籍を収めていたという。残された人生を学問に捧げるつもりだった湖南だが、時代がそれを許さなかった。満州事変が勃発して満州国が建国されると、湖南は満州に赴いて日満文化協会の設立に尽力することになる。もう既にガンに蝕まれていて病身を圧してのものだった。湖南は軍の大陸への領土拡大を懸念していたという。そして間もなくこの世を去る。亡くなる前に知人に語った言葉が残っているが、それは「日本人の力と熱とをもってすれば必ず一度は中国大陸を支配するでしょう。しかし底知れぬ潜勢力をほもっている中国の土地と人民とを到底長く治めきれるものではありません。中国を支配したために日本は必ず滅びます。」というものであった。その後の日本を的確に予言したものであった。日中戦争はこの3年後に勃発する。

 

 

 若気の至りで途中で英語にかぶれたりもしたが、結局は漢学者の家系だけあって東洋文化に戻ってきたという人物のようである。しかしそういう過去があるのなら、中国の若者の動きも「若い頃にはありがちだよな」ともう少し鷹揚に見ることが出来なかったんだろうかなどと思ったりもする。

 中国が欧米に滅茶苦茶にされることへの焦りがあったのかもしれないが、確かに新支那論での論理は暴論というか危険極まりない。亡くなる前に残した言葉から考えるに、中国が日本に支配されるべきとは考えてはいなかったように覗えるが、結局はそっちに都合良く利用された感がある。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・漢学者の家系に産まれた内藤湖南は、漢学の素養を修めた後に英語に興味を持ち、上京して英語学校に通いつつ独学で西洋文化について学ぶ。
・その一方で生活費稼ぎのために働いていた出版社でその実力が認められ、海外の記事についての論評を執筆するなどジャーナリストとしての力をつけていく。その過程で清朝について興味を持つようになる。
・中国に渡った湖南は中国の経世思想に触れ、歴史を実証的に検証することで現実社会の問題を解決するという方法を吸収する。自他共に認める中国通となった湖南は京都帝国大学教授に就任する。
・その後の中国では清朝の滅亡に中華民国の建国、袁世凱による独裁など社会が混乱していく。そんな中で彼は近代中国の起源について考え、近代中国は五代十国から北宋に至る時期に起源を発するという唐宋変革論という学説を唱える。
・湖南の考えは近代中国は絶大な権力を持つ皇帝と、自立自存をしている民衆からなっているというもので、そこから自治共和制に移行するのは可能というもので、これを中国に対する政策進言である「支那論」として発表する。
・しかしその後の中国では日本の大陸進出に伴って反日デモなどが広がり、若者の間には中国文化を守旧の象徴として排斥して西洋化を目指す者が出てくる。湖南はその背後にアメリカの影響力を感じて反発する。
・そして「新支那論」を発表するが、それは文化的に成熟した中国が政治に興味を持たないのは自然で、もっと幼稚な国である日本がそれを担当すべきと言う中国侵略を正当化するとも取れる過激な論であった。
・ただし湖南自体は日本が大陸に進出していくことを懸念しており、日本が中国を支配しようとすると最終的には日本は滅びると語っていた。湖南の死の3年後に日中戦争が勃発、時代は湖南の懸念した通りの展開を進んでしまうことになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・確かに評価の難しい人物です。なおゲストの議論の途中で、日本の中国研究家は結局は政府の方しか見ておらず、中国の民衆について注目したものは誰もおらず、湖南にしてもその傾向はあったという話が出ていたのは象徴的だった。
・もっとも中国の民衆とはあまりに多彩すぎて、そもそも一括りにすること自体が困難であるので、それを把握するというのは実に困難なのは間違いないが。
・ところで「こなん」と入れたら絶対に「コナン」と変換されるな。ただそれだと名探偵かもしくはその生みの親である。

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