教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

3/2 BSプレミアム 英雄たちの選択 「戦国最弱?それとも最強?小田氏治の乱世サバイバル人生」

不屈の弱小大名・小田氏治

 戦国時代と言えば、武田や上杉などの強大な戦国大名がしのぎを削った時代であるのだが、その狭間で翻弄されつつも必死で本領を守ろうと一所懸命に頑張った弱小大名として近年注目されているという小田氏治が今回の主役、彼の七転八起というよりも七転八倒の方が適切に思える生涯について。

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気難しそうに見える肖像の足下にはなぜか猫という小田氏治像

 

 

鎌倉幕府の名家だった小田家

 氏治は1531年に小田家当主の嫡男として生まれる。小田氏は鎌倉時代から続き、頼朝に常陸守護に命じられた名家であり、先祖の八田知家は鎌倉殿の13人の1人でもあったという。小田氏は350年に渡り、要地である常陸南部を統治し続けてきた。その本拠は小田城である。この小田氏の小田城は戦国の要塞というよりも、中世の館という趣のものであった。なお実は私は以前に小田城を訪問したことがある。

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小田城復元模型

 しかし時代は既に戦国となっていた。それまでの関東管領や古河公方などの勢力を排除して北条氏が台頭してくる。関東制覇を目指す北条氏康は旧勢力を駆逐して急激に版図を広げ、関東の諸将もそれに従う。しかし小田氏は名門の意地もあってそれに従わなかった。氏治は領民を大事にしており、領民にも強く慕われていたという。

 1556年、北条と支援を受けた結城氏が小田城支配下の海老ヶ島城を攻撃する。これに対して氏治は小田城から出陣して救援に向かう。氏治は高台に2000で布陣、これに対して4000の結城・北条連合軍は水田を挟んだ向かいに布陣した。兵力的に劣勢である氏治だが、攻め寄せる軍勢が田で足下を取られた時に攻撃をかけると十分に撃破できると計算をしていた。

 しかし氏治の計算は呆気なく崩壊する。彼の計算違いはこの年は例年になく降水量が少なかったことだ。結城・北条の軍勢は湿地をものともせずに一気に小田勢に攻めかかる。戦国の世で戦争に明け暮れていた北条氏と、小競り合い程度しか経験していない小田氏の戦慣れのレベルの差が歴然と出た戦いだった。氏治は別働隊に本拠の小田城まで奪われたために小田城に戻ることも出来ず、家臣の守る土浦城に逃げ込むことになる。

 だがこれで終わらないのが小田氏治、半年後に土浦城の軍勢を率いて小田城に攻め込んでこの奪還に成功する。先祖以来の居城を失うわけにはいかないという執念であった。

 

 

大勢力の狭間で翻弄される小田氏治

 反北条の姿勢を明確にしていた小田氏治だが、そこに長尾景虎(後の上杉謙信)が1560年に関東への出兵を行う。この時に氏治は北条を叩く好機と謙信の軍に加わる。しかし謙信を持ってしても堅城・小田原城は破れず、謙信は越後に撤退してしまう。するとここで氏治は何と北条に寝返りを行う。遠くですぐには来られない上杉よりも近くで勢力の強い北条に付くべきという判断だった。だがこれに謙信が激怒、1564年に謙信が送った軍勢によって小田城は包囲される。謙信の凄まじい攻撃に小田勢はとても歯が立たず、自害を決意する氏治だが、重臣の説得で土浦城に落ち延びて家臣に匿われることになる。こういうことでの小田家臣団の結束は固く、それが氏治が何度も再起した原動力だという。また小田城周辺の農民も、年貢を新しい流主に渡さず、密かに氏治の元に運んだという。

 そして1年後、かつての領民達の協力を得て兵を紛れ込ませると、夜に攻め込んで2度目の城の奪還に成功する。

 しかし次は鬼佐竹と呼ばれた佐竹義重が攻め寄せてくる。2度に渡る佐竹の攻撃を氏治は追い返したのだが、その勢いを駆って逆に佐竹領に反撃に出たところを、待ち受けていた佐竹の伏兵による一斉射撃で小田軍は敗走、またも小田城を失うことになる。

 と言うわけでどうも氏治の戦の下手さが目立つような印象であるが、番組ゲストによると戦が下手と言うよりも運がないと表現していた。この時も北条の援軍が間に合わなかったのだという。どちらにしろ小田周辺は豊かな土地なので各勢力が手中に収めようと考えるのに対して、小田氏治はそれを守り切れるだけの軍勢を持ってなかったのは間違いが無い。

 

 

秀吉の関東平定時に最後の勝負をかけるが

 それまでは1年程度で小田城を奪還していた氏治であるが、今回はそう簡単にはいかなかったようである。何度も奪還を試みるが叶わず、20年が経過したという。この時に天下の大きな変化が氏治にも影響する。豊臣秀吉の関東平定である。関東の諸将に秀吉から小田原攻めに参陣するようにとの要請が来て、以前より秀吉と懇意だった佐竹義重は小田原に出兵する。

 氏治にとっては佐竹義重の不在は小田城奪還のチャンスであった。しかしそれは秀吉に反抗することでもある。ここで氏治の選択である。番組ゲストは小田城を攻めるか秀吉に従うかは半々だったのだが、秀吉の従うのが正解だが、小田氏治の行動原理から見たら小田城を攻めるだろうなという雰囲気があった。そして実際に小田氏治は小田城を攻める

 しかし小田城に攻め寄せた小田勢が目にしたのは佐竹によって近世城郭に改造されて堅固な要塞と化した小田城の姿であった。結局は氏治は小田城の奪還もならず、その内に北条も秀吉に降伏する。氏治にとっては最悪の展開だった。北条攻めに参陣しなかったことを咎められた氏治はすべての所領を奪われる。

 すべてを失った氏治だが、ここで一か八かの賭に出る。秀吉の元を訪れて自ら謝罪を行ったのである。その結果、秀吉は氏治を許して家の存続は認められた。何だかんだで氏治は71才の生涯を全うする。氏治の150回忌にはかつての領民が盛大に行うなど、領民には慕われ続けたという。

 

 

 と言うわけで、要領の良い奴が成功する戦国時代において、自分の意地にこだわって時代に乗ることを拒み続けた時代遅れの男の物語でもある。番組中でも言われていたが、氏治の不幸はかつて鎌倉幕府の名家だったために、小田の地が非常に要地であったために戦いを避けることが出来なかったことだろう。もっと大勢力が構わないような僻地だったらニッチで生きていくことも可能だったが、それも許されなかったというところがある。

 なお最後に秀吉に許されたことに対して磯田氏は娘を使うなどしたのではと推測しているが、これはあり得る話である。秀吉はとにかく名家の娘というのを好んだので(成り上がり特有の心理)、家柄では申し分ない小田氏の姫君となると秀吉が喜んだことはあり得る。それともう一つ、小田氏治が戦で弱すぎたがために秀吉としては全く警戒する必要もなく、放っておいても問題がなかったということは非常に大きいだろう。

 まあ何にせよ、戦国時代の急激な時代の変化の渦に翻弄された最後の中世人というところである。これがもっと平和な時代だったら、領民を慈しみ地域を発展させた名君として歴史に残っただろう人物なんだが。そういう意味では登場が半世紀ほど早いか遅いかしていたらまた違ったんだろう。まあその時には歴史的に注目されることもないが。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・小田氏治の小田氏は鎌倉幕府で頼朝から常陸守護を命じられた名門で、小田城を中心として常陸南部を治めていた。
・しかし時代は戦国時代、北条氏が台頭して関東管領や古河公方などの旧来勢力を駆逐していく中で氏治は戦乱に巻き込まれることになる。
・北条氏と結城氏が小田城配下の海老ヶ島城を攻めた時、氏治は援軍に出るが、兵力差と戦への練度の差が出て惨敗、小田城を奪われて氏治は家臣が守る土浦城に敗走する。
・しかし半年後、土浦城の軍勢を率いて小田城を奪還、また関東遠征を行った上杉謙信の元に参陣する。
・しかし謙信も小田原城を落とせず撤退、氏治は今度は北条と和睦するが、これが謙信の怒りに触れて小田城は包囲されて落城する。
・氏治はこれも1年後に領民の助けもあって奪還に成功する。しかし次は佐竹義重が攻めてくる。氏治は佐竹勢を2度退けるが、逆襲に出たところを待ち伏せされて敗北、またも小田城を奪われる。
・この後は20年に渡って小田城の奪還はならなかった。ここに秀吉が関東平定の兵を挙げ、佐竹義重は小田原攻めに参陣する。氏治は佐竹の留守を狙って小田城を奪還しようとするが、要塞に改造された小田城の防御を抜けず奪還に失敗、さらには北条の降伏で秀吉に咎められてすべての所領を失うことになる。
・しかし氏治は自ら秀吉の元に謝罪のために訪れ、秀吉に許されて家の存続は認められることになる。そしい氏治は紆余曲折の上で71才の生涯を終える。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・大国の狭間の弱小勢力の悲哀が漂ってます。生き残るためには真田のような強かな行動が必要なのですが、氏治にはそれだけの柔軟性がなかったということです。やっぱり名門のプライドが邪魔をしたんでしょうね。どう考えても氏治は昌幸のような「表裏比興の者」と呼ばれるようになれる素質はありませんから。

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