教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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4/25 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「武蔵VS小次郎!巌流島の決闘の真実」

巌流島の決闘の真実

 剣豪・宮本武蔵と若きイケメン剣士・佐々木小次郎の一騎討ちである巌流島の決闘。様々な伝説もあるこの勝負だが、やはりそこに伝わる話には多くの創作やら誇張などが含まれているという。今回は一級資料などに基づいてこの決闘の真実に迫ろうという。

 まず決闘の舞台である巌流島だが、沖合の島のイメージを持つ人が少なくないが、実は関門海峡内の本土のすぐ近くの島である。正式名称は今も昔も船島。なぜ巌流島と呼ばれるようになったかは後述するとして、現在は公園となっているが、当時は藪が茂るだけの島だった。

 この島を有名にしたのが吉川英治の「宮本武蔵」なのだが、やはり小説であるのと、そもそも参考にした「二天記」が決闘の150年後に描かれたもので、しかも作者が武蔵の流派の人間なので武蔵贔屓の脚色が多く資料としての信憑性が著しく低く、やはり真実とはかなり齟齬があると言う。

巌流島こと船島(2008年撮影)

 

 

決闘の年も不明だし、そもそも佐々木小次郎は存在しない!?

 まずは決闘の行われた年だが、この時に武蔵29才となっているが、そもそも武蔵の生年自体に諸説あるので、それ自体もハッキリしていないという。なお武蔵は父(養父とされている)の新免無二斎の元で剣の修行に励み、13才で初めての決闘に挑んでから、実戦を重ねていたというのは事実らしい。

 なお小次郎は18才で小倉藩の剣術指南役を務める天才剣士とされているのだが、それがかなり怪しいという。というのはそもそも佐々木小次郎という名が一級資料とされる小倉碑文には存在していないという。あるのは岩流という流派の達人の小次郎という名だけだという。佐々木という姓は100年後の歌舞伎に登場したもので、そもそもが創作だという。なお二天記の記述から見たら、小次郎の年齢は60才以上になってしまうという。

 さらに武蔵が小倉藩の剣術指南役の小次郎に戦いを挑んで藩公認の決闘をしたというのも極めて怪しい。小倉藩の資料に小次郎の名はそもそも無いし、船島も小倉藩の領土ではない。つまりはこの辺りもすべて創作で、結局は両人の私闘だという。

 

 

決闘に至った理由に実は遅刻はしていない武蔵

 なお決闘に及んだ理由は、双方の弟子が争ったことから優劣を決しざるをえなくなったとか、小次郎が無二斎に戦いを挑んだが無二斎がそれを拒否したことから臆したと非難され、代わりに武蔵が戦うことになったなどの説があるとか。

 さらに武蔵がわざと遅刻して小次郎を苛つかせて優位に立ったという話だが、これも嘘だという。小倉碑文には「両雄同時に相会す」とのこと。それにそもそも立会人もいない私闘なのだから、2時間も遅刻したら小次郎は「武蔵は臆して逃げた」と判断してさっさと帰ってしまうだろうという。

 

 

武蔵の意図に反しての小次郎の悲惨な結末

 また武蔵は巌流島に向かう船の上で櫂を削って木刀を作ったとされているが、そもそもこれも違っていて、武蔵は事前に木刀を用意していたという。そもそも武蔵は以前から木刀を愛用しているという。それは軽くて自在に振り回しやすいことと、そもそも武蔵は決闘に勝つことが目的で相手を殺すことが目的ではないからだという。なおその武蔵が使用した木刀の複製品とされるものが松井家に伝わっており、全長は126センチとかなり長めのものだという。

 武蔵は決闘後に小次郎に息があることを確認して引き上げたそうだが、その後の小次郎は思わぬ悲劇に襲われている。どうやら先に島に上陸して潜んでいた武蔵の弟子たちに袋叩きにされて殺されたという。当然ながらこれは武蔵の差し金でなく、武蔵の養父の無二斎の指示ではと番組はしている。というのも、もし武蔵が敗れると次は無二斎が戦う必要に迫られることから、決闘に乗じて小次郎を始末することを命じていたのではとのこと。これについては神聖なる決闘を穢されたと武蔵は怒っており、だからこそ後の五輪の書にこの巌流島の決闘が記されていないという。 

 なお武蔵の弟子が渡っていることを知っていた船頭が小次郎に逃げるように伝えたが、小次郎は決闘から逃げるわけにはいかないと死を覚悟して島に向かったというエピソードが残っているとか。このエピソードの真偽のほどは疑問だが、小次郎を不憫に思う人が多かったのか、小次郎の流派の岩流からとって巌流島と呼ばれるようになったのだという。

 

 

 以上、巌流島の決闘の真実について。宮本武蔵の伝説はかなり脚色が多いですから、まあ巌流島についてこの程度の演出があっても不思議ではないでしょう。また宮本武蔵が修行で剣術を極めたのは事実でしたが、武蔵のその武名が天下に轟いた頃には剣術の意味があまりなくなっていたというのも皮肉な現実でもあります。実際に武蔵は島原の乱の鎮圧に参加したが、一揆勢の投石で腰を痛めて動けなくなって救出されたという話も残っています。実際の合戦では刀を振り回しての乱戦は最終段階であって、合戦での兵器の優先度は鉄砲≒弓>槍>>刀という話があります。要は間合いの長い武器ほど有利と言うことで、刀を使うのは敵の首を取る時ぐらいという話もあるぐらい。それにそもそも江戸時代に入って合戦自体がなくなっていった時代ですし。

 というわけで理系の私は、宮本武蔵の生涯を見ていると「技術を極めた時にはその技術が社会から必要とされていなかった技術者の悲劇」を感じたりするんですよね。20年ほど前に多くのオーディオ技術者がその悲哀を味わいましたし、恐らく近いうちにガソリンエンジンの技術者が味わうことになるでしょう。だから武蔵の晩年の「五輪の書」に私はその悲哀を感じたりするわけです。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘だが、実は事実と異なると考えられる部分がかなりある。
・まず佐々木小次郎が小倉藩の剣術指南役だったという事実はないという。また佐々木小次郎という名前自体が存在せず、一級資料の小倉碑文には岩流(剣術の流派名)の小次郎という記載しかなく、佐々木の名は後の歌舞伎での創作だという。
・さらに武蔵が小次郎と決闘するに至った経緯は、双方の弟子が対立したためとか、養父の新免無二斎が小次郎からの決闘の申し込みを断ったら臆したとの噂が流れたために、武蔵が代理で決闘したなどの説がある。
・また武蔵が遅刻したというのも創作で、さらには武蔵が使用した木刀は櫂を削ったものでなく、事前に武蔵が用意していたものだという。
・さらに小次郎は決闘の後に息を吹き返したが、島に先の乗り込んでいた武蔵の弟子に袋叩きにされて殺害されたという。これは無二斎の指示によるものと考えられ、武蔵はそのことを決闘を穢されたと怒っていたと考えられるという。
・また小次郎は自身が決闘の結果に関係なく殺害されることを分かった上で決闘に臨んでいたという伝説もあり、不憫に感じた人々が船島(巌流島の正式名称)を小次郎の流派名を取って巌流島と呼ぶようになったという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ吉川英治の作品は「歴史小説」ですから、小説として盛り上がるように脚色は当然あります。彼は歴史家ではないですから。この辺りが歴史小説を読む時の注意点です。特に彼の「三国志」はオリジナルのエピソードが多いので要注意です。よく吉川英治のオリジナルエピソードを三国志のエピソードとして引用して、実は正史を読んだことがないと言うことがバレてしまう痛い知識人がいるといいます。
・もっとも今時は、吉川英治どころか横山光輝の三国志しか読んでない三国志マニアもいるとか言いますが。
・昔は「吉川英治版<三国志演義<正史の三国志」なんてことが言われていたこともあります。つまりは三国志マニアを名乗るのなら、最低でも三国志演義、さらに本来なら正史の三国志まで読めという話。まあ今時はそこまでは言いませんが。
・ちなみに私は正史から横山光輝まで全部読んでます(少し自慢)。で少し前に「新解釈・三国志」の映画を見て、時間の無駄だったと大いに後悔したりもしてます(笑)。まあ30分も保たずに脱落してますが。

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