教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

5/2 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「元始、女性は太陽だった!婦人運動家・平塚らいてう」

紆余曲折の少女時代

 女性の地位向上・権利獲得のために活動した婦人運動家の平塚らいてうの生涯。

 らいてうこと本名・平塚明(はる)は1886年東京麹町で生まれる。父の定二郎は明治政府の役人だったという。ドイツ関係の仕事をしていた関係でハイカラで裕福な家庭で、彼女は当時では珍しい洋服姿で小学校に通学していたという。教育に熱心だった父の方針でお茶の水女学校に入学すると成績は良かったのだが、途中から良き妻、良き母を目指す女学校の教育方針に違和感を持って授業をボイコットするようになってしまう。

 そんな時に日本女子大学校の創始者である成瀬仁蔵の「女子教育」を読んで共感し、日本女子大学校英文学部への進学を希望するようになる。しかしこれに父が「女の子が学問をするとかえって不幸になる」と反対する。教育熱心だった父が豹変した背景には、当時の日本がそれまでの欧米化の反動で急速に日本古来の価値観への回帰の風潮が強まっていたからだという。平塚家でも屋敷が日本式になり、服装も着物に戻っていたという。

 結局は言い出したら聞かない娘の性格を熟知している母が取りなして、家政科ならという条件付きで進学が許されたという。こうして期待に胸を膨らませて大学に進学した彼女だが、2年になった時に回りの寮生と合わない(成瀬仁蔵の「自学自習」の方針に基づいてバリバリ独学をする彼女が、上級生からは回りの雰囲気を乱していると反発されたらしい)ことから一気にやる気をなくしてしまい、結局は自分の探しの読書三昧の日々となり、その中で禅の本に出会う。そしてその影響で現実世界の葛藤に興味を持つようになったという。

 

 

スキャンダルがキッカケで青鞜を立ち上げる

 大学卒業後は親に無断で成美英語女学校に通い始めた明。そこで文学講習会の講師をしていた文学青年・森田草平と出会って親しくなる。森田の言動から彼が心中を考えていることを悟った明は、彼女自身は森田を愛するというほどではなかったようだが、心中の決意を固めて彼と同行したという(どうもこの辺りの彼女の心情が今ひとつ理解しにくい)。しかし森田の方が「私を愛してもいないあなたを殺すことは出来ない」と言い出して、結局は警察に山中で保護されることになる。

 しかしこの事件が「高学歴同士(森田は東大卒)の男女の心中未遂事件」として新聞などに注目され、結局は明が男を次々と手玉に取る悪女のように面白おかしく書き立てられることになり、大スキャンダルとなってしまったのだという。これでまともな就職や結婚などは不可能な状況になってしまって将来の見通しが立たなくなったという。そんな時に彼女の文才を高く評価していた教師の生田長江が「文芸雑誌を女性の力で作ったらどうだ」とアドバイスしたという。彼女自身は文芸にはそれほど興味はないと言っていたが、姉の孝の旧友の保持研子が大賛成するなど、世の文学少女達の期待が大きいことを知って実現に動き始めることになる。

 

 

社会からの猛批判にさらされる「新しい女性」達

 ただここで資金不足という問題に直面する。ここで助け船を出したのは母親だったという。明の結婚のために用意していた資金を彼女は提供する(もうまともに結婚はしないだろうと諦めたんだろうか?)。そして女性だけで作った文学誌「青鞜」が創刊される。ここには国木田治子、与謝野晶子、長谷川時雨など活躍中の女性作家が名を連ねたという。そして明がここで初めて使ったペンネームがらいてうであり、その創刊の辞として記したのが有名な「元始、女性は太陽だった」の一文だった。そこには女性の地位向上への思いが込められていた。これは女性達の大きな反響を呼ぶ。

 しかし新しい女性達が青鞜に集まって活動を開始すると共に、それが旧来の男性社会からの非難を呼ぶことになる。そんな時に社員の一人、尾竹一枝の行動が大問題を呼ぶことになる。一枝の叔父で著名な画家だった尾竹竹破が「女性問題を考えるなら、不幸な境遇の女性を知らないといけないだろう」とらいてうと一枝らを吉原遊郭に連れて行ったのだが、一枝がそのことを青鞜に書いてしまったところ、「不道徳な女たちの奇行」として新聞に叩かれたのだという。これで一枝を庇ったらいてうらに批判が集まり、脅迫を受けるなどの事態に及び、青鞜のイメージにも大きく傷がつくことになった。らいてうはこの事態に女性の社会進出がまだ早いことを思い知らされる。しかしらいてうはより女性のために活動することを決意したという。

 

 

二児の母として

 そのようならいてうに1912年に転機が訪れる。画家の玉子で5才年下の奥村博史と恋に落ちたのである。そして1914年、二人は婚姻届を出さずに同居を始める。いわゆる事実婚である。女性権利を求めない法律の下での婚姻をしたくないらいてうの意志だった。これもまた世間から冷たい視線を浴びることになる。多忙な日々の中で疲労が蓄積していくらいてうに対し、青鞜社社員の伊藤野枝が自分に編集発行を任せて欲しいと申し出る。そしてらいてうは翌年に長女、2年後に長男を出産する。しかし奥村の絵が売れない中での生活はかなり苦しかったという。子育てをしながら執筆に励むらいてうは、その厳しさに直面して働く女性の妊娠・出産・育児などは保護されるべきと痛感する。しかしこれに対して与謝野晶子が噛みつく。彼女は男も女も子供を育てる経済力をもってから結婚するべきという考えを持っていた。らいてうは「それは特別な才能を持っている女性でないと不可能」と反論、両者の母性保護論争は激化する。

 これって、らいてうの主張は今の女性保護での「産休、育児休暇、子ども手当」などであり、男女の違いを認めた上で女性の育児に対する負担は社会である程度助けるべきという考え方。与謝野晶子の主張はもう少し前の時代のフェミニズム全盛期の「女性もすべての面で男性と対等に渡り合う必要がある」というもので、若干の時代の違いがある考え方である。結局のところ、これについては未だに社会的に決着ついておらず、女性解放を求めた時に揉める原因の一つにもなっている。

 1919年、らいてうは市川房枝らと共に女性による日本初の政治的市民団体「新婦人協会」を結成、婦人参政権運動に力を入れる。しかし2年で体調悪化のために身をひいてしまう。らいてうは療養生活に入るが、太平洋戦争の勃発でそのまま疎開生活に入って社会から身を退いた状態になる。彼女が再び活動を再開したのは日本国憲法が制定されてからだったという。ようやく女性の権利が認められる世の中になったと考えたのだという。そして1971年、85才で死去する。

 

 

 以上、婦人運動家平塚らいてうの生涯。紆余曲折が様々あるが、とにかく男性社会の猛反発の中でかなり苦労しただろうことは想像に難くない。政治活動をあまり活発に出来なかったのは、体調悪化を理由にしていたが、世相が戦争に傾く中の大政翼賛体制の中で実際に活動を行うのは命の危険を伴うということもあったろう(何でもかんでも反政府的と解釈したら、片っ端から拷問死させていた狂犬・特高警察などが猛威を振るっていた)。

 上でも少し書いたが、与謝野晶子と大論争になった「女性の保護はどうあるべきか」については、未だに女性自身の間で決着がついていない感がある。その結果として女性解放運動自体が内部で女性同士の足の引っ張り合いになったこともある。実際に男女同権初期の「男性に負けずに社会でバリバリ働く」という志向の女性は、女性保護を訴える女性に対しては「甘えている」と男性が行うような批判をしたこともある。ただ結局はそうして頑張った女性達の多くは、結局は出産・育児ということは諦めざるを得なくなった者も少なくなく、それも問題となった(よく男性社会が「女性に権利を与えたから少子化した」と屁理屈をつける根拠でもあるのだが)。今は男女に違いがあるのは事実として当たり前(能力的なものでなく、機能的なもの)なのだから、その上で女性の不自由を出来るだけなくそうという方向に収斂しつつあるようではある。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・平塚らいてうは子供の頃から意志の強い少女であった。女学校の良妻賢母教育に違和感を持ち、自らの意志で日本女子大学への進学を行ない、紆余曲折しながら女性の解放を目指す意志を持つようになる。
・大学卒業後に成美英語女学校に通っていた頃、文学講習会の講師をしていた文学青年・森田草平と心中未遂事件を起こし、これが新聞に面白おかしく報道されてしまったことでまともな就職や結婚が困難な状況になる。
・そんな時に成美英語女学校の教師の生田長江が「文芸雑誌を女性の力で作ったらどうだ」とアドバイス受ける。当初はあまり乗り気ではなかったが、世の文学少女達の期待の高さを感じて、女性による文芸誌「青鞜」の出版にこぎ着ける。
・この時に名乗ったペンネームがらいてうであり、その創刊の辞として記したのが有名な「元始、女性は太陽だった」の一文だった。
・彼女の元には同じく女性解放を求める女性達が集まるが、彼女たちは男性社会の中では強い非難にも晒されることになった。
・特に彼女たちが「不幸な女性の境遇を知るために」と遊郭に出向いたことは反道徳的と猛バッシングを受けることになり、らいてうも脅迫などを受けることになる。
・1912年、年下の画家の玉子である奥村博史と恋に落ちたらいてうは、当時の女性にとっては差別的な婚姻を行うことを避け、事実婚を選ぶことになる。しかしこれもまた世間の非難を浴びる原因となる。
・貧困と多忙の中でらいてうは二児を出産するが、そのような生活の中で母性の保護の重要性を実感する。しかし彼女の主張は与謝野晶子の猛反発を受けて大論争を招くことになる。
・やがて彼女は政治活動に身を投じるが体調の悪化で2年で身を退き、しばしは地方での療養生活となる。再び政治の場に姿を現すのは戦後の日本国憲法が制定されてからであり、その後は様々な活動を行いながら、1971年に85才で死去する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・先駆者ってしんどいんですよね。彼女の紆余曲折がまさにそれを物語っています。
・女性解放を唱えている人も様々で、男性の立場としても共感できる者が少なくないですが、中には「いやいや、それは逆に男性差別だろ」っていうような極端な人もいます。だからといって全部を一括りにして「女性解放は間違っている」と唱える男性優位論者は一番醜いし格好悪いですが。

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