教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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5/9 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「悲劇の将軍 14代・徳川家茂」

悲運の将軍・徳川家茂

 今回の主人公は幕末のドサクサの中で若くして亡くなってしまったために今ひとつ印象の薄い14大将軍・家茂。しかし彼は名君の資質のある将軍だったという。

徳川家茂

 

 

動乱の時代に若くして将軍となる

 1853年、黒船来航で国内が混乱する中で12大将軍・家慶が亡くなる。子の家定が13代将軍に就任するが、病弱な家定には子が望めなかったことから、早くも将軍継承問題が持ち上がる。ここで候補となったのは2人。1人は一橋家当主の一橋慶喜、もう1人は紀州藩主の徳川慶福(後の家茂)だった。慶喜を推すのは島津斉彬、山内容堂などで一橋派と呼ばれた。実力主義を唱える開明派である。一方の慶福を担いだのは井伊直弼、松平容保などの保守派で南紀派と呼ばれた。当初は慶喜が既に元服している上に英明の誉れたかったことから有力視されていた。しかし慶喜の父の斉昭が大奥から総スカンを食らっていた(大奥の女性を襲って妊娠させたらしい)こと、さらに井伊直弼が大老に就任したことで形勢が逆転して慶福の将軍後継が決まる。そして1858年に家定が亡くなると慶福が家茂として13才で将軍に就任する。

 もっとも13才の家茂はかなり賢明な人物だったようで、吉宗の再来との声もあったという。4才で紀州藩主となった彼は波江という教育係によって英明な君主として教育されたという。日々、真面目に文武に励み、誠実で人のことを気遣える人物だったという。将軍になってからのエピソードとして、書道を指導していた戸川安清が高齢のために失禁してしまった時、それを誤魔化すのにわざとふざけて戸川の頭から水をかけたという。そのような優しさを持った人物であったようだが、それ故にこの時代においては悩みも尽きないことになる。

 家茂が腹心と頼んでいた井伊直弼は独断で外国と条約を結び、さらには安政の大獄で反対派を弾圧、これが水戸の尊王攘夷派の怒りを呼んで桜田門外で暗殺される。家茂は悲嘆に暮れたという。さらに直弼の死で一橋派の勢力が復活することになり、幕府の実権は一橋派が握ることになる。

 

 

公武合体で和宮と結婚、朝廷との関係に心を砕く

 そういう時に公武合体論が持ち上がり、家茂が皇女・和宮と婚礼することになる。不安いっぱいで江戸にやってきて、習慣なども全く異なる大奥の中で孤立していた和宮だが、家茂が何かにつけて和宮に対して細かい心遣いを示し、それが和宮の心を開いていったという。完全な政略結婚であったのだが、この夫婦の仲は非常に睦まじかったという。家茂は元々優しい人であった上に、公武合体の重要性を認識していたのだという。

 だが夫婦が平和に暮らすことは許されない時代だった。家茂は229年ぶりに京に上洛することになる。当時の京は尊王攘夷派の志士が集まって天誅テロが相次ぐ不穏な状態だった。幕府も松平容保を京都守護に任じ、新撰組を設置するなど治安維持に努めていた。家茂は自ら乗り込むことで幕府の力を示すつもりだったのだという。しかし孝明天皇と会見した家茂は孝明天皇に対して攘夷の約束をすることになってしまう。

 家茂は内心では攘夷が不可能だということを分かっていたので、約束の期限が来ても攘夷は実行されなかった。しかし尊皇攘夷で沸騰していた長州はしびれを切らせて単独で外国船を砲撃する暴挙に出る。さらに家茂が江戸に戻った後、過激な尊王攘夷派が孝明天皇の不興を買って追放されるという八月十八日の政変が起こるなど、情勢は風雲急を告げるようになる。

 その翌年、将軍は再び上洛するが、この時に孝明天皇から親子のように情愛を持って親しんでいこうという意志を告げられ、さらに無謀な攘夷は望まないということも告げられる(単独で攘夷に走った長州が、外国艦隊にボコられたのでさすがに孝明天皇も焦って攘夷をするのは無理と悟ったのだろう)。

 

 

長州征伐の途中で倒れる

 ストレスの多い家茂の心を癒やしたのは和宮との手紙のやりとりだという。和宮は甘い物が好きな家茂のために菓子を送り、家茂は和宮に贈り物を送っていたという。

 1864年、長州藩が巻き返しを図るべく禁門の変を起こす。孝明天皇はこれに激怒し、長州討伐の勅許を下し、第一回長州征伐が行われることとなる。家茂は幕府軍総大将として指揮を取る立場だったのだが、その最中に家茂は朝廷に辞表を提出するという事態に及ぶ。諸外国から兵庫の開港及び条約の勅許を求める圧力が強いが、朝廷の意を重視する一橋派(一会桑)がそれに反対して家茂は身動きが取れない状態になったのだという。家茂は「どうにでもしてくれ」とばかりに慶喜に将軍位を譲ろうとしたらしいが、慶喜の方は「こんな大変な時に火中の栗を拾わされても・・・」と家茂を説得して思いとどまらせたという(なんか将軍位の押し付け合いになっているが、こういうのを見ても、本当に慶喜ってやる気があったのという疑問は湧く)

 将軍位に留まった家茂だが、一旦降伏した長州藩が再度反旗を翻したことに対する第二次長州征討に望むことになるが、薩摩の出兵拒否で幕府軍が敗北する中、家茂が突然に倒れる。喉や胃腸の障害からやがて足に腫れが出たと言うことで、病名は脚気だという。脚気はビタミンB1の不足で起こるが、そもそも白米を食べる江戸では多い病で「江戸患い」などとも言われていた。その上に家茂はかなり甘い物が好きだったために、糖分過多でこれがさらにビタミンB1を消費させてしまったのだという。懸命の治療の甲斐もなく家茂は1866年に21才で大坂城で亡くなる。将軍就任から8年9ヶ月であった。家茂の死に悲嘆に暮れた和宮は、京に戻らずに徳川の女性として留まり、1877年に死去、遺言により遺体は家茂の隣に葬られたという。そして家茂の死の翌年、慶喜が大政奉還を行い徳川幕府は終焉を迎える。


 以上、恐らく平時なら名君として名を残す素質はあったのだが、生まれた時代が悪かったというか、とんでもない責任を背負わされた挙げ句にプレッシャーで早死にした悲劇の将軍です。恐らくあちらこちらに気を使いすぎて擦り切れたのでしょう。なお後を継ぐことになった慶喜は早々に「辞めた」と放り出した状況ですから、家茂が頑張ったところでもう時間の問題だったんでしょうが。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・14代将軍家茂は、紀州藩の藩主から13才で将軍に就任することになる。
・当初は一橋慶喜の方が優勢であったが、慶喜の父の斉昭が大奥から総スカンを食らっていたことと、家茂支持の井伊直弼の強権で家茂の将軍就任が決まる。
・しかし井伊直弼はその強権が祟って暗殺され、幕府内は再び一橋派が主導権を握ることになる。
・幕府の権威回復のために公武合体が画策され、家茂は皇女・和宮と政略結婚する。しかし家茂が細やかな心配りをする人物だったことから、家茂と和宮との仲は良好であったという。
・しかし時代は激動の中、京の治安維持のために上洛した家茂は孝明天皇に対して攘夷の約束をさせられることになる。
・だが攘夷の実行は不可能と分かっていた家茂は攘夷を行わず、長州藩は単独で外国船を砲撃して報復を食らうことになる。
・やがて孝明天皇に疎まれた強硬派は京から追放され、家茂と対面した孝明天皇は無謀な攘夷派望まないと発言する。
・巻き返しを図る長州藩は禁門の変を起こすが、孝明天皇がこれに激怒、長州征討の勅許が出たことで第一次長州征討が行われ、家茂は総大将となる。
・しかしその時に、一会桑との対立などで身動きの取れなくなった家茂が朝廷に将軍を辞任するとの訴えをする。結局は慶喜の説得で思いとどまる。
・だが第二次長州征討の折、幕府軍が苦戦する中、大坂城で家茂が倒れる。脚気を患っており、懸命の治療も空しくこの世を去る。
・その後は慶喜が将軍となるが、大政奉還はその翌年であった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・なんか家茂は必死で自分の職分を果たそうという意志が見えるんですが、どうもそれが空回っているんですよね。一方の慶喜はどうも最初から幕府の今後を見限っていた様子があって、やけにあっさりと大政奉還してしまいます。こういうところを見ていてもとにかく家茂って可哀想な人です。

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