農民から秀吉の腹心へと
兄弟は家督を争うライバルとして、時には流血沙汰に及ぶことが少なくない戦国時代において、自身は一切権力を覗うこともなく、ひたすら兄のサポート役として支え続けた人物として知られるのが、天下人豊臣秀吉の弟、豊臣秀長である。
秀長は秀吉からの信頼が絶大であり、中国大返しの時の殿も秀長が指揮し、明智光秀との戦いでも要衝の天王山を抑えるなど秀吉の勝利に大貢献した。ここ一番では絶大な信頼に対して実直に答え続けたのが秀長であると言う。
秀長は秀吉よりも三歳年下の弟だが、早くに家を出て行商人から武士を目指した秀吉と違い、家に残って真面目に農家を守り続けていた。しかし秀長が20才を過ぎた頃に突然に秀吉が訪れて、自分の家臣になって欲しいと頼み込む。秀長は武士になることなど毛頭考えたこともなかったが、秀吉の頼みに答えることになる。それ以降、2人は二人三脚で進んでいくことになる。
賤ヶ岳の戦いでは信孝と滝川一益を討つために美濃に向かった時、残って防御を託されたのが秀長である。秀長は秀吉の留守を狙っての勝家の攻勢に対し、窮地に落ちながらも秀吉の指示通りに防御に徹し、美濃からとんぼ返りしてきた秀吉によって勝利を収めている。
家康の策動を抑えるために宇陀松山城を築く
こうして天下取りに近づいた兄弟の前に立ちはだかったのが家康である。小牧長久手の戦いでは苦戦することとなった。この時に要衝である宇陀松山城を要塞化したのが秀長であると言う。この地には伊賀衆や雑賀衆などの油断できない勢力が存在しており、それを抑えるための要地がこの地だという。番組ではここでお城クンこと千田氏が登場して宇陀松山城を紹介しているのだが、凝った作りの防御力の高い城である。
四国攻めでの決断
秀長は46才の時に四国攻めの総大将を命じられる。四国の長宗我部元親は家康と組んで秀吉の背後を脅かしていた。秀吉は自ら出陣するつもりだったが、急な病気のために秀長が送られることになったのである。秀長は初めて大将としての力量を問われることになる。徳島県の土佐泊に6万の軍と共に上陸した秀長は長宗我部方の前線の城を次々と攻略するが、四国を代表する堅城である阿波一宮城が立ちはだかる。長宗我部の本拠である土佐への侵入を防ぐ重要拠点であるこの城に、5千の長宗我部軍が籠城していた。秀長は5万の兵でこれを包囲して睨み合いとなる。この時に病の癒えた秀吉から自らが出陣するという連絡が来る。
ここで秀長の選択である。秀吉の出陣を待つのが第一の選択。実際にこの時に秀長は一宮城の防御の硬さに苦戦していた。ここを落とすには秀吉の到着を待って、兵達の士気も上げた上で臨むのが良いのではないかという選択である。
もう一つは秀吉の出陣を断るというもの。もし秀吉が四国に来ると、その隙を覗って家康などが動き始める可能性がある。またこの頃、北陸で佐々成政が敵対しており、北陸で大規模な戦が起こる準備が始まっていたという。だから四国攻めはあくまで自分の力で勝利するという選択である。
ゲストの意見は分かれたが、ここでの秀長の選択は「秀吉の出陣を断る」であった。ここで秀長は自立したとも言える。ここで秀長は貯水池を破壊して水の手を断つ手を打ち、城兵が動揺したところで元親に和議を持ち掛けたという。一宮城が落城したら土佐本土への攻撃が必至と考えた元親は和議に応じる。そして四国の他の地は奪われたものの、土佐本国は秀長の取りなしで安堵される。
統治の困難な大和の地を郡山城を築いて治める
一方の秀吉はその間に佐々成政を降伏させる。家康は各地の同盟国を失って孤立、ここで秀吉は妹や母を人質に出す大胆な策で家康を取り込もうとする。なか秀長はこれには反対したという。そして秀長は大和・紀伊・和泉の大名となり、大和郡山城を拠点とする。
ここで千田氏が大和郡山城を訪問しているが、石垣作りの極めて立派な城である。これはこの地域で力を持っていた寺社勢力に対してのアピールとして、意図的に豪華な城を建造したと考えられるという。また秀長は秀吉の刀狩りに先んじて寺社の武装解除や検地も実施している。これで多くの寺社が領地を削られたという。秀吉の政策を先んじて実験をしているのだという。
この後、秀長は九州討伐では肥後方面を行く秀吉に対し、日向方面の軍を率いている。1587年には従二位大納言に叙され、政権内で秀吉に次いで高い官位となる。こうして秀長は押しも押されぬ政権ナンバー2となる。大名たちのもてなしなどに細かい心遣いをする秀長は大名たちからも信頼を得たという。秀吉に意見できるようになった秀長は朝鮮出兵には強く反対し続けたという。
そして秀吉の天下取りの最終盤の北条攻め、しかしこの場には秀長の姿はなかった。秀長は1591年に病死してしまうのである。葬儀には多くの人が集まって秀長を悼み、秀長によって領地を減らされた興福寺の僧でさえ「これからのことを考えると心細い」と書き残したという。
実際にその後の豊臣政権の転落は早かった。秀長の死の一ヶ月後に利休が切腹を命じられ、翌年には朝鮮出兵が強行される。これらが豊臣政権の寿命を縮めることになる。
秀吉の優秀な弟・秀長の生涯である。秀吉は秀長に全幅の信頼を置いていたし、秀長は生涯を尽くして秀吉に従い、背くことはなかった。これは確かに戦国では希有な関係であり、ここまで良好な兄弟関係は他には武田信玄と信繁ぐらいしか浮かばない。秀長がここで亡くならなければ家康の出番はなかったのではという話が出ていたが、これは同感。秀長が健在なら関白秀次の切腹などの愚行はなく、普通に秀次がつなぎとして関白を継ぎ、家康のつけ込む隙が無かったのではと思われる。その内に家康が亡くなると、磯田氏も言っていたように、後継者は覇気の無い秀忠だから「豊臣政権の大大名ってことで良いじゃん」で安住する可能性はあったように思われる。なお秀吉と秀長の兄弟がうまく行っていた理由は、そもそも2人とも元からの武士ではなくて、農民の出だからではという指摘があったがそれは核心かもしれない。成り上がりで子飼いの家臣のいない秀吉にしたら、秀長は唯一心から信頼できる身内だったんだろうという気はする。
なお今回登場した宇陀松山城、阿波一宮城、大和郡山城はいずれも私も山城マニアとして訪問しているが、宇陀松山城は規模の割には凝った作りであることに感心し、阿波一宮城は非常に堅固であることに驚き、大和郡山城はその立派さに圧倒された(私はこの時にいずれの城郭も100名城クラスに匹敵すると評したが、後にいずれも続100名城に選定された)。ああやって改めて見せられると、そう滅茶苦茶遠いわけでもないし、久しぶりに訪問したくなってくる。
忙しい方のための今回の要点
・秀長は秀吉の三才下の弟で、秀吉が家を出た後に農家として家を守っていたが、20才を過ぎた頃に秀吉に家臣になるように頼まれる。
・その後、2人は二人三脚で進んでいくことになる。秀吉は秀長に全幅の信頼を置き、中国大返しでは殿を、賤ヶ岳の合戦では秀吉が美濃に向かった時の陣地の守備を務める。
・秀吉が家康と対立した時には、伊賀衆や雑賀衆の動きを抑えるために宇陀松山に堅固な城を築いてこの地を治める。
・さらには長宗我部元親の四国征伐では総大将を務めることに。阿波一宮城の堅固さに手を焼くが、秀吉の出陣を断って自ら一宮城を追い込んで長宗我部元親と和睦をする。
・また九州征伐では日向方面の軍勢の総大将を務め、豊臣政権の事実上のナンバー2となり、諸大名への対応などを担当して彼らの信頼を得る。
・しかし小田原攻めを前に病死、その後は利休切腹に秀長が猛反対していた朝鮮遠征の実行などで豊臣政権は急速に衰えていくことになる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・「この人さえ生きていたら」と歴史上で言われることが最も多い人物の一人ではあります。実際に私も秀長がもう少し長生きしていたら、晩年の秀吉の無駄な粛正や失策がなくなり、結果として豊臣政権のままで次の時代を迎えた気がします。
次回の英雄たちの選択
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