教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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8/31 BSプレミアム 英雄たちの選択「検証!200年前のロシア危機~露寇事件 松平定信3つの意見書」

ペリーよりも前の外国との大事件

 江戸幕府の外国との最初の接触と言えば、いきなり浦賀沖にペリー率いる黒船の艦隊が現れ、鎖国下で諸外国の状況を知らなかった幕府は右往左往・・・というイメージがどうも一般的は強いようだが、実はそうではなく、それ以前から日本近海に外国船が現れて幕府が対応に追われるという件は複数発生している。実際はそういう状況の中で、徐々に開国に向かわざるを得なくなったというのが実情のようである。今回の英雄たちの選択は、そのような事件の一つである露寇事件についてである。

 この事件は1806年に樺太や択捉島の幕府の施設にロシアの軍鑑が現れ、砲撃などの攻撃を行った挙げ句に略奪を行ったという事件である。事件のきっかけは、それ以前に幕府がロシアからの通商の申し込みをむげに拒絶したことにあると言う。その報復攻撃であったという。この時、幕府は蝦夷地に兵力を派遣すると共に、元老中首座でロシアとの交渉に携わった経験のある松平定信に意見を求めたという。定信はこれに対して3回に渡る意見書を提出しているという。ここで定信はどういう対応策を示したか。

 

 

通商を求めていたロシアの思惑

 事件は択捉島で発生した。4月29日に2隻のロシア船が幕府の施設のあるシャナの沖に現れる。シャナには函館奉行所の役人と弘前・盛岡の藩兵が駐屯しており、幕府役人は最初は戦う意志のないことを示す白旗を掲げて穏便に交渉を行おうとする。しかしロシア兵は上陸するなり銃撃を仕掛けてきて藩兵が応戦して戦闘となる。これに対して艦砲射撃まで繰り出すロシアの火力の前に撤退を余儀なくされ、ロシア兵は倉庫の武器・食糧・金屏風などを奪って放火の後に撤退したという。捕虜になった大村治五平の手記によるとロシア船は大型大砲4門を装備、船員は大口径の銃を所持していたという。

 さらに6月始めに武器を搭載して向かっていた幕府の御用船が利尻島沖で襲撃され武器や鉄砲が奪われて船は焼かれるという事件が発生、6月5日に利尻島で日本人捕虜が解放される。彼らは通商を許可されないと攻撃するというロシアの文書を所持していた。つまりこれは単発的な海賊行為ではなく、ロシア国家による示威行為であったのである。

 しかしそもそもこの事件は突然に発生したのではなく、事の起こりは15年前の1792年の9月に遡るという。この時に根室沖にロシア船エカチェリーナ号が現れる。乗船していたのはロシア使節のアダム・ラクスマン。彼は松前藩を通じて幕府に、漂流民を江戸の役人に引き渡したい、返答がなければ直接に江戸に向かうという書状を渡す。この時に対応したのが老中首座の松平定信で、ラクスマンたちを松前に向かわせるとそこで返答書を渡す。ここには国の定めとして江戸行きは拒絶することと、通商を求めるなら長崎に行って現地の沙汰に任せよということを伝える。そして長崎への入港の許可証を渡す。強大なロシアを恐れていた定信は、もしロシアが本気で戦闘を挑んでくると勝ち目がないと考えており、交易を実現させる余地を残していたのである。

 

 

12年後に現れた別のロシア使節

 ラクスマンは長崎に向かうことはなかったが、その12年後に長崎にロシア船が現れる。ロシア船・ナデジダ号は通商を要求していた。彼らはラクスマンが受け取った入港許可証を所持していた使節はニコライ・レザノフで皇帝アレクサンドル一世の侍従長でアラスカにまで進出した露米会社の責任者でもあった。毛皮を求めてアラスカまで進出した露米会社は寒冷地のために食糧に苦しんでおり、日本で食糧を調達することを望んでいた。レザノフは入港許可証を所持していたので交易を許可されると考えていたが、幕府はレザノフの上陸を禁じて24時間の監視体制下に置く。2ヶ月半後に上陸を許されるが軟禁状態のまま半年が経過、ようやく翌年の3月に幕府目付との会談が行われるが、レザノフはけんもほろろに追い返されることになる。これはレザノフを激怒させることになる。既に松平定信はこの時には老中を退いており、当時の老中首座は戸田氏教、レザノフ担当は老中土井利厚であった。レザノフは親しくなった通訳から、通商には戸田が反対しており、彼が政権から去れば通商交渉は可能と聞いていた。また老中土井利厚から対応について諮問された大学守の林述斎によると「丁重に交易はことわる方が良い」と言ったが、老中は「粗略に扱えば腹を立てて二度と来ないだろう」と無礼な対応をすることにしたという。

 帰国したレザノフは怒りが収まらない上に、入植地の状況も切迫していた。そこで彼は部下に「日本の背信行為に対し、樺太に入港して日本船を見つけて焼き討ちにする」と命じる。これは日本に対する脅しであった。これが露寇事件の始まりだという。レザノフは日本に圧力かけることで通商が可能になると考えていたという。

 

 

当初は通商の可能性も検討するも、世論を考慮して強硬姿勢に

 幕府は弘前・盛岡・秋田・庄内の諸藩に命じて3000人の兵を蝦夷地に派遣する。これらの兵は函館、宗谷、斜里などの海岸線に配されてロシアの攻撃に備える。そしてこの時に定信に意見を求めることになる。これは老中首座が定信の腹心の松平信明に変わっていたことも理由にあると言う。定信は3通の意見書をしたためる。最初のものにはロシアを打ち払った後に相手の目的が通商なら慎重に対応するようにしたためてあり、利尻の件でロシアの目的が通商であることが判明した後は、ロシアに対して武威を示すためにはロシア領の島に攻め込むことを提案している。その理由として長崎で丁寧に交易を申し込んできた時には追い返し、武力侵攻されたら認めるのでは他のヨーロッパ諸国にも軽蔑されるととしている。そして武威さえ示せば通商は許しても良いと考えていた。

 しかし状況が一変する。幕府のロシアに対する惨敗ぶりが庶民に知れてしまうのである。あまりの不甲斐なさに立腹した函館奉行所の役人が、状況を江戸に手紙で伝えたためだという。また利尻沖で御用船が襲撃された時も、幕府役人は戦わずに逃げたことも知られることになり、「蝦夷の浦に打出て見ればうろたへの、武士のたわけのわけもしれつつ」などという狂歌を詠まれる羽目になる。幕府の権威が揺らいだ危機である。ここで定信は3回目の意見書をしたためる。そこでは武威を示して通商を認めるか、徹底排除で通商を拒むかである。

 これに対しての番組ゲストの意見は通商拒絶が多数派であり、定信も通所拒絶を訴える。そうしないと幕府の権威を保つことが出来ないという判断であった。幕府は新たに兵を増強するとロシア船打払令を出す。1811年に国後島にロシア軍人のゴローウニンが上陸する。松前で取り調べを受けたゴローウニンは、ロシア側の襲撃は皇帝の許可無く行われたこと、レザノフは命令を撤回したが部下が暴走したことを証言する。そしてロシア側の謝罪文が届けられたことでゴローウニンは釈放される。この後、日本はより強く鎖国を意識することになる。その一方で日本は諸外国の情勢の調査をかなり力を入れて行うことになるという。

 

 

 以上、日本の対外事件について。なおこれまで日本は殊更に鎖国体制を意識したことがなかったんだが、この時に海外の事情などを調査して「鎖国論」に触れたことで、日本の死守すべきレガシーとしての鎖国制度というのを初めて意識したというような話があったが、確かにそういうものだったかも知れない。家康などは有害な相手とは付き合わないことを決めただけで、国を閉ざしたという意識はまるでなかった(実際にこの頃の植民地化の野心むき出しのスペインなどは明らかに有害)ようだし、後の幕府の認識もそのようだったので。

 まあこういうこともあったので、この後の幕府は必死でいろいろなチャンネルから海外の情報を入手するようにしていたから、実はペリー艦隊の襲来は完全な不意打ちではなかったという話が最近では知られている。また幕府のアタフタした対応というのも、多分にその後に政権を簒奪した薩長による自己正当化の一環としての、幕府の評価を下げるための宣伝という側面があったのも事実のようである。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・1806年、蝦夷地に現れたロシア船が、幕府施設を攻撃して武器や食糧を略奪して放火するという事件が発生する。
・この事件に先立つこと15年、ロシア船エカチェリーナ号が通商を求めた来航した際、老中松平定信は使節のアダム・ラクスマンに長崎の入港許可証を渡し、通商も検討するという返答を与えていた。
・しかし15年後、その入港許可証を持参して長崎にに来港した使節のレザノフは、既に定信が老中を退いて幕閣が入れ替わっていたこともあり、けんもほろろに追い返されることになる。
・これに激怒したレザノフが日本に圧力をかけるために部下に日本船の焼き討ちを命じたことが騒動の発端だったという。
・幕府は蝦夷地に派兵すると共に、かつてロシアに対応した松平定信に意見を求める。定信は当初は一定の武威を示した後に通商に応じるという意見を出す。
・しかし幕府の蝦夷地での不甲斐ない敗北ぶりが庶民に知れ渡ったことで幕府の権威が揺らぎ、定信は幕府の権威を建て直すためにも通商の徹底拒絶を意見し、幕府もロシアに対しての異国船打払令を出すことになる。
・後にロシア軍人のゴローウニンを通じ、事件はレザノフの部下の暴走と言うことでロシアからの謝罪文が正式に届いたことで、一応の終着は見る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・この時の対応としては何が正解かは分かりませんね。むしろここで積極的に開国する手もあったんですが、そうなると幕府が持たなかった可能性もある。ただここで一応ロシアとの問題が解決したことで、後に「日本の力で攘夷は可能」という考えが一部の武士に根付いて、それが幕末の混乱を引き起こした気もしますね。

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