教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

10/6 BSプレミアム ザ・プロファイラー「モンゴルvs鎌倉武士~日本最大の危機~」

南宋との戦いが日本侵攻へのキッカケであった

 日本最大の危機の一つであった元寇。結果は歴史に残っているように暴風雨の襲来もあって日本が辛くもモンゴルを退けたが、もし状況が変わっていたらどうなったかのシミュレーションも含めて元寇について振り返る。

 まず世界帝国を築いていたフビライ・ハーンが日本に目をつけた理由だが、当時のモンゴルは南宋を支配しようと戦っていたが、そこで南宋の火薬を付けた矢による攻撃で手を焼いていたのだという。火薬に使用する硫黄は日本から輸入している。そこで日本と南宋を断交させることで南宋が硫黄を調達することが出来ないようにしようと、日本に国交を求める文書を送ってきたのである。

 しかし文面は普通に国交を求めるような文書であったが、最後にはしっかりと、要求に従わない時には軍を派遣することになるというような脅しは含んでいたという。この国書を若き執権・北条時宗は黙殺する。

若き執権・北条時宗

 時宗はまた国書を黙殺しただけで放置したわけではない。モンゴルの襲来が予想される北九州の防衛のために異国警固番役を整備した。これは九州に所領のある御家人で東国にいる者に対し、九州に向かうように指示したのである。ただ朝廷から命じられている時宗は日本国を守るという意識が強かったのに対し、東国の御家人などは自分にはまだ関係ないことという意識があり、そこに意識のズレがあったという。

 

 

無視されたフビライはついに日本に派兵する

 一方、数度に渡って国書を無視され続けたフビライは、ついに日本侵攻を決意する。こうして1274年に文永の役と呼ばれる第一次蒙古襲来が発生する。支配下の高麗から大小900艘の船で出発したモンゴル軍は総勢3万、まずは対馬に侵攻する。

 日本側は対馬の守備を命じられていた宋助国がわずかな手勢(80騎とのこと)で出陣、モンゴル軍を迎え撃って激戦をするものの衆寡敵せず、激戦の果てに全滅する。また宋助国の遺体は敵に奪われないように数カ所に分けて家臣達によって葬られたという。現地では今でも宋助国を魂を弔うための祭が行われるという。

 モンゴルは対馬に続いて壱岐を制圧、そして10月20日、ついに博多湾にその姿を現す。モンゴル襲来の報に日本側は1万騎が駆けつけるが、しかし集まれたのは北九州周辺の一部の軍勢に限られていたという。なお番組では筥崎宮を訪問して、例の「敵国降伏」の額について紹介している。なおここにはモンゴルが残した武器なども収蔵されているという。

この額を見た時は、私も「やけに好戦的だな」とギョッとした

 なお有名な蒙古襲来絵詞が登場するが、これは竹崎季長が自らの活躍をアピールするために作らせたものである。この絵巻によると集団戦を取るモンゴル軍に対し、家単位で戦っている(手柄をハッキリさせるため)日本軍という違いなども読み取れるという。

 兵の意識の違いもあるが、武器の違いもある。モンゴルは火薬を用いたてつはうなども使用したが、これは基本的には音で驚かすものだという。勝敗を分けるのは弓の威力となるが、日本の弓はつのみといって弓をひねる動作が入るので威力は高いが、モンゴルの弓の方が扱いやすくて速射性があるのが特徴だという。

 

 

モンゴルは一日で撤退したが、もし戦い続けていたら

 日本側は奮戦するものの、モンゴルの大軍の前に追い詰められ太宰府に撤退する。しかし翌日に反撃のために出撃した時にはモンゴル軍はいなかったという。かつては嵐でやられたなどとも言われていたが、実際はモンゴルの最初の攻撃はその軍事力のアピールのためなので、十分に恐ろしさを知らしめたところで撤退したのだという。

 ではここでモンゴルが戦い続けていたらどうなるかをシミュレーションしている。その結果は、上陸して内陸に侵攻するモンゴル軍に対して、日本軍は水城を使用して防御戦を張って徹底抗戦する。戦線が硬直したところで、まだ到着していなかった九州南部などの軍勢が続々と到着、モンゴル軍に対する包囲網を形成することになり、10月で向かい風の強い中でモンゴル船団は逃亡も援軍要請もままならず、孤立したモンゴル軍は全滅という結論。まあ妥当なシミュレーションだろうと私も思う。

水城、今は道路で寸断されているが、このような巨大土塁が続いている

 この次に第二次蒙古襲来となるのだが、番組ではその前にうどん発祥の地の紹介が入っているが、ハッキリ言ってこれはどうでも良い話題。要はこの頃に小麦を製粉する技術が入ってきて、うどんなどが登場することになったのだという。

 

 

それでも降伏しない日本に、フビライは第二次侵攻を行う

 第一次侵攻で日本を震え上がらせたと考えているフビライは、1275年に日本に対して使節団を送り込む。しかし時宗はこの使者の首をはねてしまう。つまり徹底抗戦の意志を示したのである。しかし時宗はこの時、恩賞問題を抱えていた。先の戦いで勝利はしたものの、決死の覚悟で戦った御家人達に与える土地などはなかったのである。先の竹崎季長も恩賞が得られず、鎌倉に乗り込んで直談判に及んだという。その結果、土地はもらえなかったが馬をもらったという。

 このような問題はありながらも時宗は防御態勢の強化を行う。まず御家人だけでなく朝廷や自社の抱える武士も配下に治める総動員体制を敷く、さらに西国の守護を北条氏一門に入れ替え、統制を徹底するようにした。これで関東から九州に向かう武士が増えることになる。さらに異国警固番役を強化した。

 1276年、南宋を滅ぼしたフビライはいよいよ日本侵攻を目論む。これは南宋で失業した旧南宋軍兵士の処遇問題のためでもあるという。こうして1281年5月に第二回元寇・弘安の役が発生する。モンゴル軍は朝鮮半島からの東路軍4万、南宋からの江南軍10万という大軍勢であった。船の数は4400艘にも及んだという。両軍は6月で壱岐で合流して一気に攻める予定が、江南軍の到着が遅れ、東路軍は単独で侵攻する。

 そのモンゴル軍の前に現れたのが総延長20キロにも及ぶ防塁である。高さは2.5メートルほどもあり、攻撃側には絶壁、守備側は上から打ち下ろす形になるので圧倒的に有利である。この防御施設で日本軍はモンゴルの上陸を阻止する。やむなくモンゴル軍は志賀島の占拠に留まるのだが、その夜に日本軍は小舟で夜襲をかけてモンゴル軍に被害を与える。武士たちは巧みなゲリラ戦でモンゴル軍を消耗させていく。

発掘された元寇防塁

 

 

江南軍が到着するも台風で壊滅、もしこの台風がなかったら・・・

 しかし7月上旬に1ヶ月遅れで江南軍が平戸に到着する。海を埋め尽くさんばかりの大軍勢が博多を目指し鷹島に停泊する。いよいよ総勢14万の大軍による総攻撃の前夜、台風が襲撃する。これでモンゴル船団は壊滅的な打撃を受ける。ここで大量の沈没船が出てしまったのは、狭い海域に多くの船が密集しすぎたせいだという。強風で流された船は互いに衝突して損傷して沈没したと推測できるという。なおこの時に沈没したモンゴル船の残骸が今でも海中に残されているという。なお海中から船の残骸だけでなく、多くの日用品が見つかっており、日本を占領してそこに駐屯する意志があったことが覗われるという。

 さてここでもし台風が起こらなかったらのシミュレーション。しばらくはモンゴル軍は上陸する地を探して硬直状態になるが、その内に一部が迂回して有明海側から上陸、背後から日本軍を挟み撃ちにすることにり、太宰府が陥落、日本軍は壊滅する。さらに門司や大分を寝返らせて九州南部まで制圧したら、九州はモンゴルの手に落ちるという結果に。ちなみに武士は一所懸命で自分の土地に対する執着は強いが、それを保証してくれるのが鎌倉幕府でもモンゴルでも構わないというのは核心をついている。

 フビライは3度目の日本侵攻を計画し、今度は精鋭軍を送る計画を立てる。しかし帝国内の疲弊で内乱なども発生してなかなか侵攻の余裕の出来ないままフビライが亡くなり、これで日本遠征は完全に消滅する。一方、鎌倉幕府は常にモンゴルの侵攻に備えての厳戒態勢を続けることになったが、結局はこの精神的物資的負担が最終的には鎌倉幕府の滅亡に結びついてしまう。なお時宗は34才という若さで病死するが、過労死ではないかという話もある。

 

 

 以上、いわゆる蒙古襲来について。以前は圧倒的に戦慣れしたモンゴルを前に、鎌倉武士は潰走状態で、台風によってようよう救われたという解釈だったのだが、近年の研究では「鎌倉武士も意外に善戦した」と変わってきている。まあそれはそれで良いんだが、それが安直な「日本すごい」の風潮と結びついているところがあるのが懸念されるところ。番組内でもこの時に日本が神仏の加護で守られたという考えが起こり、それが後の神風思想につながるという話があったが、歴史とは異なる次元での非常に危ない面も含んでいるわけである。

 なお純粋に軍事的に考えて、モンゴルが日本を完全に支配するというのはやはり無理のだっただろうとは思われる。やはり守る側には地の利があり、モンゴル側は補給線が海を越えている以上、いずれは補給が乏しくなったところをゲリラ戦で叩かれるということになるのが見える。だから一番の鍵は「九州の武士たちを自陣営に寝返らせることが出来るか」であるように思われる。まあそうやって考えると、実は九州は歴史的に見たら、元々畿内政権とは距離を置いていた地域であるので、ある意味では中国系の勢力下に入るというのはあり得ないことでもなかったりするのである。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・フビライがそもそも日本侵攻を考えたのは、南宋が火薬の原料である硫黄を日本から輸入していたためである。
・フビライは日本に対して国交を求める国書を送ったが、これは執権の北条時宗が黙殺する。
・何度も国書を黙殺されたフビライは1274年に3万の兵を日本に送る。これが文永の役である。
・日本側は北九州の守備を命じられていた1万騎の武士が駆けつけて激戦となる。弓の威力では和弓が勝るが、モンゴルの弓は扱いやすく速射性に勝った。家単位で戦う日本軍はモンゴル軍の集団戦の前に苦戦して太宰府に一旦撤退する。
・しかしモンゴル軍はその日のうちに撤退する。モンゴルの強さを見せつけただけで十分だと判断していたと考えられるという。
・実際にこの時にモンゴル軍が戦い続けたとしてシミュレーションすると、モンゴル軍は日本の防衛戦で硬直している内に、包囲されて全滅する可能性があったと出ている。
・フビライは再び日本に対して使者を送るものの、時宗はこれを切り捨てて徹底抗戦の意志を示す。
・南宋を下したフビライは、南宋軍を動員して総勢14万の大軍を日本に派遣、これが弘安の役である。
・しかし南宋からの江南軍の到着が遅れたことで、東路軍4万が先行して博多湾に攻撃を欠けるが、日本側が防塁を築いて万全の防御態勢で迎え撃ったことから上陸を果たせず、志賀島を占拠するものの夜襲をかけられて被害を出すことになる。
・7月、ようやく1ヶ月遅れて江南軍が到着。総勢14万の大軍で攻撃をかける体制に入るが、その夜に台風が襲来、密集した船団は互いに衝突して船が損傷して沈没船が多数出てモンゴル軍は壊滅する。
・フビライは3度目の侵攻を計画しつつも、帝国内での反乱などに忙殺されて実行できないままこの世を去る。一方の日本でも厳戒態勢の負担が徐々に幕府に対する不満につながり、鎌倉幕府が滅亡する一因となる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

結局戦争は攻めた側も攻められた側もどちらも不幸になるという典型的な事例でもあります。まあ当時のモンゴル帝国では戦争は公共事業みたいなもので、どこかで戦争をやらないと国が続かなかったという面もあるようですが。ただフビライ亡き後のモンゴル帝国の失墜ぶりがまた早い。