教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

10/19 BSプレミアム 英雄たちの選択「日本の宝を守れ!町田久成・博物館創設への挑戦」

またもNHKの主催イベントの宣伝です

 今回は明治に日本で活躍した町田久成・・・と言っても、大半の人には「誰?」であろう。かく言う私にも「誰?」である。国立博物館創設に奔走した人物だという。いかにも唐突であるが、こんな人物を取り上げるのも東京国立博物館でNHKが主催して「国宝」展が開催されるから。すべての番組がNHKのイベントか大河の宣伝になるというのが昨今のNHKの露骨な風潮で、その尖兵となっている番組の最たるものが「歴史探偵」で、最近はこの番組まで動員されている。

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国立博物館建設を目指した「お殿様」

 町田久成は後に東京国立博物館の初代館長になる人物であるが、彼は藩主の親戚筋の生まれで、いわゆる「お殿様」だそうである。しかし秀才であり留学生の引率役としてイギリスに出向き、そこで大英博物館に大きな感銘を受けたという。2年半の留学後に帰国した町田は明治新政府で参与として外交の分野で活躍していたが、後に不本意な配置転換で文部省の前身に身を置くことになり、ウィーン万国博覧会の出展を任されることになったのだという。

町田久成

 その頃の日本では廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、神道原理主義者によって歴史ある仏像などが破壊されたり、運営に困った寺院が宝物を売り払うなんてことも起こっていた。町田は早急に寺社の宝物を保護するように意見書を政府に提出する。文化財という言葉さえ存在しなかった時代に、いち早くその価値に目をつけたのだという。そして1871年に古器旧物保存方が布告される。各地の寺社は所有する宝物の目録を作ることが義務づけられ、これで文化財の散逸に少しずつ歯止めがかかることになる。

 町田の元には古美術に精通する蜷川式胤や自然科学の知識に長ける田中芳男などの、共に博物館設立を目指す同志が集まってくる。1872年3月、湯島聖堂でウィーンバンコク博覧会の出展準備を兼ねて日本初の博覧会を実施、各所から集めた600点を一堂に展示したこのイベントは大盛況で20日の予定だった会期は50日に延長され、15万人を集めた。

 

 

全国の文化財の大規模調査を実行し、国立博物館建設に動き始めるが

 町田は各地に眠る文化財の調査が必要と訴え、明治政府による初の文化財調査である壬申検査が実施されることになる。町田の指揮の下で学者や画家や写真技師などが集まる(中には高橋由一もいたという)。120日間にわたって大小100箇所に及ぶ寺社を調査、克明なスケッチや写真を残す。正倉院の宝物も調査したという。かなり強い使命感がないとできない膨大な作業だったという。これが皮切りに明治政府は以降に数回にわたる調査を実施し、文化財の重要性の認識も高まっていくことになる。

 町田の博物館建築の計画の後ろ盾となったのが大久保利通であり、1877年には上野に博物館を建設する計画が正式に許可される。しかし状況が急変する。大久保利通が暗殺され、さらには西南戦争の戦費調達で政府が紙幣を乱発した結果、深刻なインフレが発生して建築資材が高騰する。結果として工事は中断してしまい、大蔵省からは計画見直しの声まで上がる。ここで町田の選択である。計画を大幅に縮小してとりあえず開館にこぎ着けるか、あくまで理想の博物館建設に邁進するかである。

 

 

強引に博物館設立にこぎ着けた町田の裏技

 番組ゲストは磯田氏を含め、とりあえず縮小でも仕方ないので何とか開館にこぎ着けてから拡張を目指すが多数意見だったのだが、町田はあくまで理想の博物館建設を目指したという。しかしそのままでは実現不可能である。そこで町田は超裏技を駆使する。追加予算獲得の名目として内国勧業博覧会に目をつけ、その会場として使用するという名目にして博物館の建物の建設費用を捻出したのだという。しかし建物は完成したものの、そのままだと建物は内国勧業博覧会の施設になってしまうので、建物の主導権を握るために強引に博物館の所蔵品を持ち込んで建物を占拠したのだという。これは実は鹿鳴館の建設場所を探していた井上馨の入れ知恵で、町田達の博物館があった内山下町の敷地を譲ることで外務省から上野への移転費用を確保したのだという。建物の二階は完全に町田達の博物館の展示品で占拠され、博覧会側は二階の使用を諦めざるを得なくなったという。そして博覧会の会期が終わるとさらに博物館の整備を推し進め、ついに東京国立博物館の開館にこぎ着ける。町田は初代館長に就任する。

 しかし町田はわずか7ヶ月で館長の職を辞す。運営方針の対立が原因とされている。その後の町田は出家して仏門に入り、三井寺の僧として晩年を過ごした。荒廃した寺院の復興のために寄付金を集めるなど、文化財保護に取り組み続けたという。

出家後の町田久成

 

 

 以上、国立博物館を設立した町田久成の話。彼が危機感を持ったキッカケの1つが廃仏毀釈の嵐ってのが、いかにも。町田が意見書に記したように、対応が1年遅れていたら日本の文化財が壊滅していたところだった。もっともこの時に破壊を免れた文化財の中で、あの愚か極まりない戦争で失われたものも少なくないのだが。

 まああの時代にこういうまともな人がいたのが救い。もしこの人物がいなかったら、日本は取り返しのつかないことになっていただろう。とにかく明治維新後の新政府は人材不足でとんでもないことになっていたから、文化財なんて放置されていた可能性が高かった。町田がある程度中央にコネがあって発言力があったからどうにかなったが、そうでなかったら後に博物館を作ろうにも収蔵品が皆無なんて可能性もあったのである。

 なお町田は館長になったものの7ヶ月で辞職してしまい、結局器は作ったものの学芸員などのソフトの整備が出来なかったのが残念と言っていたゲストがいたが、これは確かに同感。博物館は展示室と倉庫を作ればそれで良いと言うものでなく、そこにキチンとした学芸員が存在して初めて機能する。これは図書館と司書も同じ関係である。未だにここのところを分かってない自治体なんかも少なくない。立派な建物は作ったものの、プロの学芸員がいなくて自治体職員の兼業とかで中身かスカスカなんて博物館も。また学芸員を首長のコネでねじ込んだら、そいつがとんでもない奴で収蔵品が毀損されたなんて例まである。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・国立博物館初代館長の町田久成は、薩摩の藩主の親戚であり、イギリス留学で大英博物館に衝撃を受けて日本でも博物館の建設の必要性を感じる。
・外交の場から外される形でウィーン万博の準備を担当させられることになった町田は、国内で廃仏毀釈の嵐の中で日本の伝統有る宝物が損なわれることに危機感を抱き、それらを保護することを政府に提案、1871年に古器旧物保存方が布告される。
・国内初の大博覧会を成功させた町田は、全国の文化財の調査が必要であると感じ、学者や画家や写真技師を率いて全国の文化財の調査を始める共に、国立の博物館の建設に向けて動き始める。
・博物館建設は大久保利通の後押しもあって認められるが、大久保が亡くなり、西南戦争後のインフレの中で予算が尽きて博物館建設は中断することになる。
・しかし町田はあくまで理想の博物館を建設することにこだわり、内国勧業博覧会の会場建設の口実で博物館の建物を完成させると、そこに博物館の収蔵品を強引に運び込んで占拠してしまう。その結果、博覧会終了後に国立博物館が開館することになる。
・町田は国立博物館の初代館長に就任するが、方針の対立などで7ヶ月で辞任。その後は出家して荒廃した寺院の復興のための寄付を集めたりなどの文化財保護に奔走する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・方針の対立で辞めたとのことだが、建設時にあれだけ無茶していたら、何だかんだで責任を取らされたってこともありそうな気もするな。特に日本の組織の場合は。
・にしてもこの番組は、大河関連とかそういう宣伝に使われることが多い。「歴史探偵」ほど露骨ではないにしても。やはり今のNHKの番組制作の方針が垣間見える。そのせいで今のNHKはかつてより大幅に劣化した番組ばかりになっている。

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