教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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11/28 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「北条氏VS後鳥羽上皇!日本史の転換点「承久の乱」」

大河ドラマ対応、承久の乱に対するまとめ

 以前より歴史物では度々扱われているが、今年になると大河ドラマ関係でやたらに登場が増えている承久の乱についてのまとめのような内容である。しかもちょうど大河の方で承久の乱が登場するタイミングに合わせたあざとい企画でもある。

 まず承久の乱に到る状況だが、源頼朝の突然死の後の粛正合戦の中で権力掌握に到るのが北条義時である。そして三代将軍の実朝は後鳥羽上皇に接近することになる。一方の後鳥羽上皇であるが、歴代天皇の中ではトップクラスとも言えるだけの行動力と能力を持ち合わせた人物であったという。実朝はそのような後鳥羽上皇に蹴鞠や和歌を通じて接近、政治のやり方を学びたいという意志もあったという。一方後鳥羽上皇は実朝を取り込んで幕府を遠隔操作するという意図を持っていた。そして後鳥羽上皇の思惑通りに実朝は後鳥羽上皇に心酔する。

歴代天皇の中では有能な後鳥羽上皇であったが

 

 

後鳥羽上皇の幕府に対する不満が実朝暗殺を機に表面化

 しかし後鳥羽上皇は幕府に対して不満を持っていた。彼は熊野詣での費用を調達するための沿道からの徴税を考えていたが、幕府が守護や地頭の任命権を持っていたことから思うに任せず、守護や地頭の罷免を幕府に求めたが幕府に拒絶される。武士の利益代表である幕府にとっては頼朝が獲得した守護地頭の任命権は権力の根幹であり、そこを譲ることは出来なかったのである。

 そんな矢先、実朝の暗殺事件が勃発する。後鳥羽上皇がさらに実朝を取り込むべく右大臣の官位を与えたことに対する祝いの席での事件であった。暗殺事件は実朝の甥である公暁による単独犯行というのが今日での通説であるが、義時黒幕説などもあったという。後鳥羽上皇は実朝暗殺を嘆き、警護を怠った幕府に対する不信感を強める(また彼は義時黒幕説を信じていたのではという気もする)。そして後鳥羽上皇は自身が寵愛した女性の亀菊に与えた所領の地頭の罷免を要求する。後鳥羽上皇はこれで幕府を試そうとしたのではという。幕府は対応について協議するが、結果としては拒絶する。これで後鳥羽上皇は反幕感情を強めることになる。

 幕府は次の将軍として九条家から三寅(後の4代将軍の藤原頼経)を招聘するが、これに対して朝廷の内裏を警護する大内守護の源頼茂が「源氏の血を引く自分こそが将軍になるべき」として謀反を起こす。この謀反によって内裏の一部が焼失することになる。修理費用捻出のために朝廷は増税するが、負担を強いられた御家人や寺社などから強い抵抗を受ける。しかしこれを幕府は静観する。そもそも将軍後継を巡る争いがキッカケであることから後鳥羽上皇は強い怒りを感じ、その怒りは幕府の頂点にいる北条義時に向かう。

 

 

後鳥羽上皇がついに挙兵、彼が持っていた勝算は

 承久の乱勃発の1ヶ月前の1221年4月20日、後鳥羽上皇は順徳天皇を譲位させて4才の孫の孫を即位させて仲恭天皇とする。これによって後鳥羽、土御門、順徳の3人の上皇が存在する異例の事態が発生するが、これは土御門上皇が討幕に消極的だったことから、討幕に積極的な順徳天皇を上皇にすることで自由に動けるようにして、討幕に協力させようとしたのだという。

 後鳥羽上皇は早速朝廷の武力強化を図る。元々存在した親衛隊の北面の武士に加えて、武勇に優れた西国の御家人などで編成した西面の武士を設置、また北条氏に反感を持つ御家人を取り込む。そして5月14日、鳥羽離宮に1700騎余りの武士を集める。状況が良く分からないまま後鳥羽上皇の呼びかけに巻き込まれたような者もいたようだが、この時に呼びかけに応じなかった京都守護は粛正され、幕府寄りの公家も捕らえられて幽閉される。こうして京周辺を固めた上で後鳥羽上皇は義時追討の院宣を発する。承久の乱が勃発する。この呼びかけで2万の兵が集結する。

 後鳥羽上皇の目論見は必ずしも幕府を軍事力で撃退するというものではなかったという。というのは当時の歴史的に見て、宣旨は切り札であり、宣旨に逆らって勝った者はいないというのが常識だったからだという。後鳥羽上皇の読みは、院宣が出たことで幕府内部が分裂して反義時派と義時派の内戦が発生して反義時派が勝利し、そして後鳥羽上皇が幕府を掌握するという図式を描いていたのだろうという。

 

 

上皇の読みに反して御家人は幕府側で結束、上皇は敗北する

 しかし歴史は後鳥羽上皇の目論見とは異なる道を歩むことになる。幕府は朝廷と戦う決意をする。ここで北条政子が動揺する御家人を鼓舞する演説をしたことが記録に残っている。御家人達は幕府が自分達の利益代表であることを確認し、上皇軍と戦うことを決めたのである。

 ただ戦略が迎撃か侵攻かで揉める。しかし時間がかかることによって御家人が動揺して離反者が出ることを警戒した大江広元が侵攻策を決する。そしてその夜の内に義時の息子の泰時を18騎を率いて出陣させる。もっとも泰時には迷いがあり、鎌倉に戻って「院が出陣してきた時にはどうするか」を義時に尋ねる。これに対して義時は「院が自ら出陣してきたら逆らわないが、院が出陣せずに軍を派遣しただけなら徹底して戦う」ということを泰時に命じる。そして泰時の元には御家人が続々とはせ参じて大軍となる。そして19万の大軍が北陸道、東山道、東海道の3方から京に攻め上る。

 後鳥羽上皇は全く想定外の事態に慌てて迎撃軍を派遣するが、多勢に無勢で10倍の幕府軍を相手に勝負にならない。後鳥羽上皇は比叡山延暦寺の協力を要請するが、寺社に対して抑制策を強いていたことが反発されて比叡山に拒絶される。そして宇治川で最終決戦に及ぶが最初は川を利用して幕府軍を食い止めるが、幕府軍が強行渡河に成功したことで圧倒的な兵力差で勝負は決する。後鳥羽上皇は宣旨を取り消して降伏を余儀なくされる。

 後鳥羽上皇の敗因はまず院宣の威力を過剰に見込んでいたことと、三浦氏の調略に失敗したことであるとされる。つまりは後鳥羽上皇が考えていた以上に、幕府と御家人の結びつきが強かったということである。いくら有能な後鳥羽上皇でも、所詮は宮中の中だけの人であり、御家人の心情を理解できなかった。これが彼の限界であった。結局後鳥羽上皇は隠岐に流されてそこで生涯を終え、この乱によって幕府の意向が西国にまで浸透するようになって武士の支配が盤石のものとなるのである。


 以上、承久の乱についてのまとめであるが、正直なところ正真正銘の「まとめ」って感じで、あちこちの番組で言われていたことがまんまで今更驚くものも学ぶものもないな。まあ歴史物が視聴率上どうしても大河の影響を無視することが出来ないのは分かるが、それでなくてもNHK内で同じネタを番組を変えては使い回しているところに、民放までが参戦しても・・・ってのが本音。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・後鳥羽上皇は実朝を取り込むことで幕府をコントロールすることを考えていたが、実朝が暗殺されたことで落胆と共に警護を怠った幕府に対する怒りが強まる。
・そこで幕府に対して地頭の罷免を踏み絵として要求するが、幕府は御家人の利益を守るためにこれを拒絶、これで後鳥羽上皇は討幕の意志を固める。
・後鳥羽上皇は独自の兵力を集めると北条義時追討の院宣を発する。後鳥羽上皇にすれば院宣の威力で幕府内では分裂が起こって最終的には反義時派が勝利すると見込んでいた。
・しかし御家人達は北条政子の演説によって幕府を自分達の利益代表と認識、団結して後鳥羽上皇軍と戦うことを決意する。
・三方に分かれて進軍した幕府軍は数で圧倒して上皇軍を撃退、後鳥羽上皇は降伏して隠岐に流され、これで幕府の全国支配が固まることになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・この乱の失敗って、結局のところはいくら優秀な人間でも「ボンボンの限界」ってのがあることを示してるんだよな。どうしても下々のことを知らないので、その心情が理解できなくて失敗する。昔から名君って言われた者は、多かれ少なかれその境遇の中で彼らの心を知る機会があった者である。これが「生まれながらに社長」の三代目が企業をつぶす原因でもある。それを防ぐ手は、そういう下から上がってきた有能な者を取り立てることなんだが、その点でも後鳥羽上皇は側近にも恵まれなかった。

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