教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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2/13 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「源平合戦はここから始まった!平治の乱」

共に頭角を示していた清盛と義朝

 今回のテーマは源氏と平氏の争いの原点とも言える平治の乱について。この争いで戦うことになった平清盛と源義朝に注目する。

 そもそも源氏と平氏の発祥であるが、天皇になれなかった皇子が臣下になる時に与えられる代表的な姓であるという。清盛は桓武天皇の義朝は清和天皇の末裔である。平氏や源氏の血筋は各地に散っており、その中から軍事に携わった者が武士となっていくわけであるが、そもそもは両氏に敵対関係はなかった

 清盛の父の忠盛が武士で初めて内昇殿を認められたエリートであり、六波羅に拠点を置いて力を持ったことから平氏の中でも別格として「平家」と呼ばれるようになったという。清盛はその名門の御曹司として12才で従五位の下という異例の出世をし、そこから昇進を重ねていく。29才で安芸守となって西国に勢力を伸ばし、1153年に36才で平家の棟梁となる。

 一方の義朝は清盛の5才下で、河内源氏の棟梁家に生まれる。しかし源氏は一族間の争いで衰退していた上に、父に疎まれて官位を持たないままに東国に下向など不遇な環境に合ったという。しかし自力で関東の武士団を率いて京に進出し、31才で従五位下を賜り、下野守となるなど父を凌ぐ昇進をする。

 

 

保元の乱では共闘するが、乱後に対立して平治の乱につながる

 この二人が最初に朝廷内の争いに巻き込まれたのが保元の乱である。保元の乱は鳥羽法皇の没後に後白河天皇と崇徳上皇の兄弟が主導権を巡っての争いである。崇徳上皇が挙兵したことで乱が勃発した。上皇が招集した武士には清盛の叔父に当たる平忠正、義朝の父である源為義がいた。一方の清盛と義朝は後白河法皇に付く。血肉の争いとなったのだが、後白河法皇方の兵600が崇徳上皇側が占拠していた白河北殿を奇襲、義朝の活躍で乱は4時間で制圧する。忠正は頼朝に助命を嘆願するが拒絶され、義朝は父である為朝の助命を後白河法皇に願い出るがこれも拒絶される。義朝は左馬頭の役職を与えられて破格の抜擢をされるのだが、義朝自身は自分が一番武功を上げたのに清盛が最上位の播磨守に栄達したことに不満を持つことになる。もっとも最初から清盛の方が官職が高かったので、この結果はある種の当然ではあったという。

 後白河天皇が二条天皇に譲位して院政を行うようになると、近臣の信西が権力を握ることになる。信西は清盛と密接な関係を築いており、その武力を背景に改革を進める。しかしその信西の専横を快く思わなかったのが、もう一人の近臣である藤原信頼である。もっともこの信頼については凡夫という評価があるという。それはともかくとして信西を敵視する信頼は義朝に目をつけて接近する。義朝は信西に為朝の助命を拒絶されたり、娘の婚姻を断られたりなどの恨みがあったことから、信頼に付くことになる。

 そして1159年12月9日、信頼と義朝は京で挙兵する。この挙兵について信頼は二条天皇の側近である藤原経宗と藤原惟方の黙認を取り付けていた。信頼達は夜に信西や後白河法皇のいる三条東殿を攻める。女子供も皆殺しの戦いで、後白河法皇と二条天皇を幽閉、信西は逃走したものの追っ手が迫ってくることから自害した。こうして信頼と義朝は朝廷の主導権を握る。

 

 

清盛の逆襲で平家の勝利に終わるが

 この頃清盛は熊野詣でで京を離れていた。しかし乱を知って引き返す。義朝は清盛を警戒しており、義朝の長男の義平は阿倍野で待ち受けて清盛の戦の準備が整う前に迎え撃つことを主張するが、信頼はこれを却下する(やっぱり無能だったようである)。そして六波羅に帰還した清盛はまず天皇を奪還することを考える。とりあえず信頼に服従の意志を示して油断させておいてから、藤原経宗と藤原惟方に接近する。二人は乱勃発後に信頼が実権を握ったことに不満を抱いていた。清盛は彼らと連絡をとりつつ、12月25日に二条天皇を女官に変装させて牛車で逃がすことに成功する。同時に後白河法皇も清盛の手引きで仁和寺に脱出する。この事態を知って初めて信頼は茫然自失、その体たらくに義朝は「日本一の不覚人」と罵ったとか(信頼ってとことん無能です)。

 天皇を頂く六波羅には貴族らが続々と集まり、二条天皇は信頼・義朝追討の宣旨を発したところで清盛は兵を挙げる。12月26日、清盛の息子の重盛が3000の兵を率いて攻め上る。一方賊軍となった義朝らの兵は2000、苦戦必至であった。平家軍は後退して義朝軍を大内裏から引き出すと別働隊が大内裏を占拠、義朝軍はそのまま六波羅に攻め込もうとするが、源頼政が裏切ったことで総崩れになる。

 信頼は後白河法皇の元に駆け込んで助命を願ったが処刑される。最後まで命乞いをしてかなり往生際が悪かったらしい。一方義朝は再起を図るべく東国に落ち延びようとするが、途中で頼った長田忠致に裏切られて命を落とす。長男の義平は仇を討とうと京に潜伏するが捕まって斬首される。また三男でこれが初陣だった頼朝も捕らえられる。

 ここで清盛は池禅尼の助命嘆願で頼朝を処刑せずに流罪に処することになる。これが結果としては平家を滅ぼすことになる失策になるのだが、この時の清盛には思いもよらないことだった。

 

 

 以上、昨年の大河ドラマのプロローグに当たる話なんだが、なんで今頃という感が無きにしも非ず。また内容的にも平家物語でも読んでいたら今更新しい知見もないというところ。

 なお清盛が頼朝を助命したことについては、清盛はそもそもこの時点で特に源氏に対して恨みを持っていたわけではないからという話も出ていたが、実際にまさかこの後に自分達を倒すまでに頼朝が力を持つとは予想してなかったろう。清盛にとっての想定外は頼朝につく連中が思ったよりも多かったことと、自分の息子が想像以上に無能だったことだろう。実際、平氏の滅亡の原因は長男の重盛があまりに早くに亡くなったことだというように思われるところである。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・平氏と源氏は共に天皇の末裔であったが、清盛の頃には清盛の父の忠盛の活躍もあって、清盛の一族の力は群を抜いていた。
・源義朝は清盛よりも5才ほど若く、また源氏の力が衰えていたこともあって、昇進の点では清盛に後れを取っていた。
・鳥羽法皇の没後に後白河天皇と崇徳上皇の兄弟が争った保元の乱では、源平共に入り乱れての対立となった。清盛の叔父に当たる平忠正、義朝の父である源為義は崇徳上皇に、清盛と義朝は後白河天皇についた。
・乱は義朝の活躍もあって後白河天皇側が勝利、忠正は清盛に助命を嘆願するが拒絶され、義朝は父である為朝の助命を後白河天皇に願い出るが拒絶される。
・乱後、義朝は左馬頭の役職を与えられて破格の抜擢をされるが、頼朝の方が元々の位も高かったことから昇進も大きく、義朝はこのことで不満を抱くようになる。
・後白河天皇が譲位して院政を敷くようになると、近臣の信西が権力を奮うようになる。信西は清盛と結びつきが強く、その軍事力を背景に力を握る。
・これに後白河法皇の側近の藤原信頼が不満を抱き、義朝に接近する。そして清盛が熊野詣でで留守の時に挙兵する。これが平治の乱である。
・義朝は後白河法皇と二条天皇を幽閉し、信西は追っ手をかけられて自害する。こうして信頼が朝廷の実権を握ることになる。
・引き返した清盛は、六波羅に戻ると信頼に服従の意志を示して時間を稼ぎながら、天皇を奪還する策を練る。そして女官に変装させて天皇の脱出に成功、同時に後白河法皇も仁和寺に逃亡させることに成功する。
・天皇を奪取して官軍となった清盛は、信頼・義朝追討の宣旨を得て挙兵、義朝軍と決戦に望む。義朝軍は裏切りが出たこともあり総崩れとなり、義朝は再起を帰して東国に逃走中に裏切りにあって殺害される。
・清盛は反対勢力を処刑するが、義朝の三男で初陣であった頼朝については池禅尼の嘆願で流刑に留める。しかし結果としてはこの選択が平家の滅亡に結びつくことになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・ちなみに大河ドラマ「平清盛」では、まず清盛の父の忠盛と言えばあまり今まで注目されていなかったのだが、彼を思いの外格好良く描いていて、父あってこその清盛のその後の出世というのを描いていたことが記憶に残っている。
・後は清盛と義朝が完全にマブダチになっていて、どことなくBLを匂わせていたところ。どうもNHKはこの頃からBLを匂わせるドラマが増えていったんだが、腐女子でも入社してきたんだろうか?

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