教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

4/19 BSプレミアム 英雄たちの選択「ようこそ黒船~阿部正弘とマシュー・ペリー~」

阿部とペリーの虚々実々の駆け引き

 今回はこの手の番組では散々扱われている黒船来航。正直なところもう新しい知見は出ようがないから、老中阿部正弘とペリーの各々が抱えていた事情と目的などの観点から斬り込んでいる。

若きエリート官僚阿部正弘

 まず昔はよく黒船来航は幕府にとって不意打ちで、幕府は対応に困ってアタフタしていたように言われるが、近年ではそれは間違いで幕府はペリーの来航を把握していたと言われている。実際にペリー来航の1年前にオランダからの情報でアメリカ艦隊がやって来る時期と率いるペリーの名まで把握していたという。

 

 

若きエリート阿部正弘の方針

 これに対するのが老中の阿部正弘だが、彼は若きエリート官僚である。かつて中山法華経寺の僧が大奥の女中と密通するという事件があり、その中には将軍家斉の側室までいたことから将軍の権威にまで傷がつきかねない大スキャンダルとなった。この事件の処理において、阿部は僧については処罰するが、大奥については調査ををしないという落着にし、将軍の権威に傷がつくのを防いだ。この処置が評価されて阿部は25才の若さで老中に就任している。当時は天保の改革の失敗で幕府内は権力争いでごたついており、老中就任時に阿部は将軍家慶からゴタゴタは起こさないようにと命じられていたという。

 阿部は穏やかな政治を志し、その姿勢は対外政策にも反映した。この頃には日本近海に西洋列強の船がしばしば現れていて緊張が高まっており、異国船打払令による強攻策が実施されていた。しかしアヘン戦争での清の敗北に幕府は衝撃を受ける。そこで強攻策から、食糧や水を与えて追い払うという穏健策に変わったという。ここにペリー来航の情報である。

 

 

双方が抱えていた苦しい事情

 一方のペリーはメキシコとの戦争で艦隊を率いて活躍した提督であった。しかし戦争が終わると活躍の場がなくなり、海軍の軍艦も持て余されていた。そしてペリーは活躍の場を求めて日本を開港させることを考え、海軍長官に日本遠征を訴える。1年後、日本遠征が決定され、ペリーはギルモア大統領の国書を日本に渡すことを命じられる。しかしペリーの想定外なことに、大統領から発砲厳禁を命じられる。ペリーは大きく手段を縛られることになる。

 1年後にアメリカ艦隊が来訪するとの情報で対応を急いでいた阿部だが、阿部の中には列強の中で交渉が出来るのなら新興国のアメリカではという考えがあったという。ただ阿部はアメリカの真意がまだ把握できていたわけではなかった。阿部は海防のために江戸湾に砲台を建造しようとしていた。しかし運悪く、江戸城西の丸で火災が発生、阿部は再建に追われ、砲台建設のための資金も江戸城再建に回さざるを得なくなった。もしアメリカ艦隊と戦闘になって江戸が焼きはらわれるようなことがあれば幕府の権威は地に堕ちる。阿部はできる限り穏便に対処するという避戦の方針を徹底する。

 一方、大統領より武力行使を禁じられたペリーは、日本関係の書物を読み漁って日本とどう交渉すれば良いかを模索していた。ペリーが至った結論は「威嚇」であった。最新鋭の蒸気船を揃えて、圧倒的な武力を見せつけることで日本を震撼させて交渉の席に着かせることを考えた。ペリーはそのために12隻の蒸気船の投入を求める。しかしアメリカはアジアにおいては中国を重視しており、その中国で太平天国の乱が発生したことからアメリカは持てる限りの軍鑑を中国に送っており、ペリーが要求した艦隊を揃えることは出来なかった。ペリーは結局、たった一隻でアメリカを出港し、上海でようやく4隻の軍鑑を揃えることが出来る。当初予定よりははるかに少ない数だったが、ペリーはこれでも交渉は可能と判断した。しかしわずか一ヶ月分の燃料と食糧しか調達できず、日本滞在の可能時間は20日ほどだった。これは絶対に日本に悟られてはいけない事実だった。

 

 

ギリギリの状況で行われた交渉と阿部の決断

 ペリーはその6日後に日本に到着する。しかし威嚇による外交を目指していたぺりーが驚いたことに、沿岸には物見遊山の人々が黒山の人だかりをなしていた。日本人は恐れるよりも好奇心に駆られたのである。ペリー艦隊が投錨すると多数の小舟があっという間に取り囲む。幕府側はオランダからの情報でペリー艦隊の編成や規模まで把握しており、ペリーの旗艦に目星をつけて乗り込んでくる。話し合いはいきなり一回目の交渉の場所で紛糾する。ペリーは江戸を主張、幕府は長崎を主張した。3日後、ペリーは強引に蒸気船を江戸湾に進行させる。幕府を慌てさせて要求に従わせるという戦術だった。このままでは時間切れの恐れもあり、国書の受け渡しだけでもしたいペリーには焦りもあった。

 これに対しての阿部の選択である。アメリカからの国書を独断で受け取るか、それとも拒絶するか。これについてはゲストの意見は受け取るが多数派であったが、これは私も同感。受け取ったからといって通商を行わなければいけないというわけでもなく、場合によっては国書を受け取ってから、それを拒絶するという手もあるからである。そして阿部も幕臣とも図らず、朝廷の許可も得ることなく独断で国書を受け取った。そしてペリーは10日の滞在の後に満足して日本を去る。

 阿部はこの後、アメリカの国書に対する対応について内容を公開して広く対応についての意見を集めるという異例の措置を取っている。そして翌年に日米和親条約が締結されることになる。弱肉強食の時代に異例の平和的な外交交渉による条約だった。なお阿部が亡くなるのはこの3年後である(過労死だとも言われている)

 

 

 なお阿部の行った情報公開は画期的であり、結果としては日本の政治意識を高めることになり、結果としては幕府を滅ぼすことにつながってしまったのではという声もあったが、たしかにそういう側面もあったかもしれない。むしろ逆に阿部がここで早逝せずに健在で幕府を仕切っていけば、もっと軟着陸の形もあったような気がする。

 ちなみに近年の評価ではこの時の幕府の対応はなかなか巧みだったということになっている。かつては明治政府によるネガキャンで、幕府はオタオタとアメリカの言いなりになったようにいわれていたのだが、どうしてどうして結構強かな外交をやっている。とにかく政権交代した時に前の政権のことをボロカスに言うのは歴史的に見ても常識なので(つい最近でも「悪夢の民主党政権」なんてネガキャン繰り返している奴らがいる)、幕府についてみるときにも、その明治新政府的な誹謗中傷フィルタははずして見る必要がある。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・黒船来航は若きエリート官僚阿部正弘とベテラン海軍士官ペリーの駆け引きでもある。
・実は幕府は1年前からアメリカ艦隊来訪の情報をオランダから得ていた。阿部は海防を強化するために砲台を建造しようとするが、江戸城の火災で資金がなくなったことから、戦火を避けるために穏健路線を取ることを徹底する。
・一方のペリーは大統領から武力行使を固く禁じられており、日本と交渉するための方法として「威嚇」を行うことを決める。しかしそのために予定していた規模の艦隊を揃えることが出来ないままに日本を訪問することになる。
・会談は江戸で行うことを主張するペリーと長崎を主張する幕府で平行線となり、ペリーは無理矢理に江戸湾への侵入を図る。そこで阿部は朝廷などに図らずに独断でアメリカの国書の受け取りを決定する。
・国書を渡してペリーが帰国すると、阿部はそれを公開して対応について広く意見を募るという異例の行動を行う。
・結局は9ヶ月後にペリーが再来日した時に日米和親条約が締結される。平和的な外交交渉によって締結された条約であった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ必要以上に幕府のことをダメダメに言っている場合は、とりあえず明治新政府史観を疑ってかかった方が良いです。現実には明治新政府の方が幕府よりも余程ダメダメな点も多かったですから。なにせ人材不足の上に長州閥の汚職がひどくて・・・。

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