教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

5/10 NHK 歴史探偵「長谷川等伯 幻の障壁画」

実は切り貼りされていた国宝の障壁画

 今回のテーマは長谷川等伯。等伯が京都の智積院に残している国宝の障壁画に注目している。特に有名なのが楓図と桜図という秋と春の風景を描いた作品で、他に「松に黄蜀葵図」などが知られている。

長谷川等伯の「楓図」

 しかしこれらの作品は実は制作時の姿と異なっているという。実際に寺の宸殿に障壁画の一部が組み込まれている。障壁画の一部は後世に切り抜かれたりして姿が変えられているのだという。そのようなことが起こったのは、智積院は江戸時代の火事や明治時代の盗難、さらには昭和22年になっての火災などで多くの作品が失われたという経緯があるという。実際に江戸時代の火災の跡に焼け残りの部分を切り貼りで再構成した記録が残っているという。

 

 

オリジナルの復元に挑む

 番組では「松に黄蜀葵図」などを詳細に撮影し、切り貼りの跡について分析している。修正の跡は20箇所にも及んでいるという。そこでCGでオリジナルの様子を復元することに挑戦している。

 そもそも等伯の障壁画は秀吉が建てた祥雲寺に飾られたものだという。祥雲寺は現在の智積院の境内に建っていたので、発掘調査の跡からまずは祥雲寺の建物の復元から行っている。礎石の跡の解析などの結果、東西38.4メートル、南北25.8メートルという破格の大伽藍であったことが推測されるという。ここに檜皮葺の入母屋造りの建物が建っていたと推測している。

 次が障壁画の復元だが、日本画家でこの障壁画を長年研究してきた安原成美氏の協力の下、絵のつながりなどからまるでジグソーパズルのように元の絵の推測を行い、欠けている部分は安原氏が想像でつないだものを番組で公開している。

 とは言うものの、実際は失われた部分が圧倒的に多いのでどうしても復元できない部分が多数ある。その中で昭和の火災前に白黒写真で撮られていたものについては、状態の良いものを選んでカラー化にも取り組んでいる。その結果、春夏秋冬の風景を描いた大障壁画が飾られていたことが判明している。また祥雲寺は秀吉の息子で3才で亡くなった鶴松を弔うための寺院であるが、鶴松の仏壇に向かって風が流れているような描写など、細心の注意を払った仕掛けが見られるという。

 

 

等伯の売り込み工作

 最後は等伯がこのような大仕事を手がけるようになった経緯について紹介。七尾出身の等伯は日蓮宗の寺からの依頼を多く受けており、このネットワークで京都で活躍するための足がかりを得たという。日蓮宗の本法寺には日堯上人像が残っており、それまで狩野派が手がけていた肖像画に等伯が食い込んだことを示している。

 さらに堺の豪商出身の本法寺の日通のコネで堺の茶人とも関係を築いたという。そして千利休に接近、大徳寺山門の絵師に起用されて名声を得る。そこまで来た等伯がどうしても欲しかったのは秀吉の仕事だったという。等伯は信長の妹と接点を持って、そこから最終的には秀吉の側近の前田玄以につながり、玄以が祥雲寺の建設に携わったことから等伯がそこに抜擢されたと推測されるという。というわけで、等伯は単に実力があっただけでなく、自身の売り込みに対しての活動もかなり精力的に行ったということである。

 

 

 以上、今回はなかなか面白かったように思うが、前半の障壁画復元に関しては、この番組単独でここまでプロジェクトを実施するとは考えにくいので、このネタでNスペを含む番組が数本登場しそうな気がする。

 また売り込みに熱心だった等伯は、当然のようにこの時代に日本の画壇を支配していた狩野派と対立することになるので、息子の久蔵が若くして急死した理由は狩野派による暗殺という説が唱えられている。なお偉大な父親の跡を継ぐことのプレッシャーによる自殺説から酔っ払っての事故死説など様々な説があって真相は不明なんだが、私は狩野派による暗殺説というのが結構核心を突いているのではないかという気がする。結局は期待していた息子を失った等伯は、その後に哀しさの漂うような竹林図屏風を描くのであるが。

どこか哀しげな「松林図」

 

 

忙しい方のための今回の要点

・智積院に長谷川等伯による国宝の障壁画が残っているが、実は智積院は今まで火災や盗難などに遭っており、現在の障壁画は火災の後に切り貼りして再構成されたものである。
・番組では切り貼りの後などを調べて最初の等伯の障壁画を復元する試みを行った。
・その結果、最初に祥雲寺に飾られていた障壁画の一部が再現され、春夏秋冬を描いた姿が浮上した。
・等伯は日蓮宗寺院のコネから京都進出の足がかりを作り、また堺の商人を経由して千利休につながって大徳寺山門の絵画を手がけることになって名を上げた。
・さらに信長の妹とのコネから秀吉の側近の前田玄以につながったことで、玄以が建築を担当した祥雲寺の壁画を手がけることになったと推測されている。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・とにかく半端でない技倆を持っているのが等伯ですが、その上昇志向も強烈だったようです。しかし期待していた息子を失ったことで、晩年には虚脱した感がありますね。
・期待の息子を失って晩年にガックリきてしまった人物の代表と言えば、長宗我部元親が浮かびます。あれがなければ長宗我部家も滅亡せずに済んだように思いますが。

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