教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

5/24 NHK 歴史探偵「天草四郎と島原の乱」

キリスト教弾圧だけが原因でなかった島原の乱

 幕府の禁教令によるキリシタン弾圧に対しての蜂起というのが、今まで一般に言われてきた島原の乱の原因であるが、実際の乱の真相はそれとは異なると言うことが特に近年明らかとなってきている。そのような島原の乱について紹介。

 まず島原の乱の原因であるが、確かにキリシタンに対する弾圧があったのは事実だが、投降した農民は反乱の理由について悉く松倉氏による苛政をあげているという。実際この松倉氏というのは、ここまでひどい大名もいるのかと呆れるぐらいのひどい領主である。島原には島原城という非常に立派な城があるので有名であるが、この城は松倉氏の石高に比べると明らかに過度な城である。

石高3万石の島原藩には立派すぎる島原城

 しかもこの地の地盤は火山灰で弱いために、ここに居城を建てるとなると難工事になる。松倉氏はこの難工事に領民を借り出すだけでなく、幕府に対して過剰な普請請負をしたりなど、とにかく見栄を張ってそのツケを領民に回していたのである。外国にばかり金を配って国内では増税ばかりする岸田のようなものである。しかも飢饉で無茶苦茶な年貢を払えない領民には(そもそも石高の見積もり自身も最初から過剰だった)、水牢に入れたり火を付けて焼き殺したりなど滅茶苦茶なことをしていた。

 

 

シンボルとして担がれた天草四郎

 当然そのような悪政にいつまでも領民が耐えられるものではない。こうして蜂起がおこったのである。首謀者は天草四郎とされているが、実はこれも違うという。実際の乱の中心は旧小西家の家臣などの牢人たちであり、農民達を仲間に巻き込むために四郎は彼らにシンボルとして担がれたのだという。

原城跡に立つ天草四郎像(2010年撮影)

 四郎は数々の奇跡を見せたと言われているが、どうやら長崎に滞在した時に異人から手品を教わったようである。そして四郎はその技を披露することで奇跡を行える者として乱のシンボルになったという。当然のように乱の最中も四郎は陣頭で戦闘指揮を執るなどということはなく、本丸に築いた教会内で神に祈りを捧げていたという。実際に乱に参加した者も、四郎の姿を見たことがないという者もいたという。つまりは姿を現さないことで神秘性を増すという戦術をとっていたという。

 さらに乱の参加者はキリシタンだけではない。まず最初に乱を企画したのは牢人たちだが、彼らは弾圧のために一旦キリスト教信仰を捨てた旧キリシタンたちを巻き込んだ。その後に、キリシタン以外の仏教徒らも強引に乱に引き込んだのだという。仏教徒たちは領主につくのか乱に参加するのかの二択を強引に迫られることになったという。

 そのような寄せ集め軍であったため、彼らは結束を固めるためにわざわざ貴重な銃弾を鋳つぶして鉛の十字架を作っているという。結束の核に信仰を持ってきたのである。また戦闘に関しては牢人たちの中には関ヶ原の合戦の従軍経験がある者もおり、天下泰平下の幕府軍よりもむしろ戦闘に長けていた。

 

 

大苦戦の幕府軍は知恵伊豆を起用して一揆を殲滅する

 原城に立て籠もった一揆勢に対し、幕府は板倉重昌を総大将にして九州大名を中心とした軍勢を鎮圧に派遣する。1638年1月1日、幕府軍は総攻撃を開始する。これに対して一揆勢は高台から矢弾や石礫を浴びせかけ、一揆側の負傷者17人に対して幕府軍は4000人の死傷者を出した上に総大将の重昌が戦死するという大敗北を喫する。ちなみにこの時、宮本武蔵も従軍したようだが、石礫を浴びて足に大怪我を負って動けなくなり、剣の腕を披露する機会もないままに撤退を余儀なくされたという。

原城遠景(2010年撮影)

 これに慌てた幕府は知恵伊豆こと老中・松平信綱率いる12万の軍勢を派遣する。信綱は原城を完全包囲して持久戦に持ち込む。

 元より後詰めのない籠城戦は不利な戦いであった。一揆勢はキリスト教国であるポルトガルの援軍を期待していた。それを察知した信綱は、オランダに攻撃を依頼する。一揆勢は待ちに待った南蛮船が自分達を攻撃するのを見て戸惑い、士気が崩壊する。そこを幕府側は「キリシタンは処刑するが、無理矢理巻き込まれた仏教徒は助ける」と攪乱するための書状を送る。これで原城内は分裂し、1万人の投降者が出る。

 そして2月27日、ついに幕府軍は総攻撃に出る。矢弾も兵糧も尽きた上に多勢に無勢の一揆勢は敗北、天草四郎も討ち取られて原城は陥落する。なお原城跡の発掘調査によると、頭部のない遺骨が大量に発見されたという。この後、幕府はポルトガル船の来航を禁じ、鎖国体制に入ることになる。


 以上、島原の乱の詳細について。まあ最近よく言われている解釈であるので、私的には全く新しいものはなかったが、中には「そうだったのか」という人もいるのではないかと思われる。

 

 


忙しい方のための今回の要点

・島原の乱はキリシタン弾圧に対する反乱と解釈されることが多いが、実は領主の松倉氏の過酷な年貢取り立てに対する反発の方が大きかった。
・乱の首謀者は天草四郎とされているが、実際は中心は旧小西氏家臣などの牢人たちであり、農民達を取り込むために奇跡を行える(実はマジックを習得していた)四郎をシンボルに立てた。
・またキリシタンだけでなく、仏教徒も領主につくか乱に参加するかの二択を強いられることになり、強引に乱に巻き込まれた者が多い。
・原城に立て籠もった一揆勢に対して幕府軍が1638年1月1日に総攻撃をかけるが、4000人の死傷者を出した上に総大将の板倉重昌が戦死する大惨敗を喫する。
・これに慌てた幕府は、老中・松平信綱率いる12万の軍を派遣する。信綱は原城を完全包囲して持久戦に持ち込む。
・一揆勢はキリスト教国のポルトガルの援軍を期待していたが、これを察知した信綱はオランダに依頼して原城の砲撃を行う。南蛮船から攻撃された一揆勢は動揺して士気が崩壊する。
・そこにさらに仏教徒などに離反を促す書状を送り、結局1万人ほどの投降者が出る。
・2月27日、幕府軍の総攻撃が行われ、食糧も矢弾も尽きた一揆勢は多勢に無勢で全滅する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・佐藤二朗が「魔界転生」の話を出していましたが、確かに私の年代には天草四郎と言えばあれのイメージが強いです。もっともあれは時代劇と言うよりもオカルトですが。

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