教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

5/24 BSプレミアム 英雄たちの選択「平安時代を壊した帝王 白河上皇 山法師との戦い」

院政を始めた白河上皇の狙い

 今回の主役は源平争乱の影の主役ともなった白河上皇。日本で初めて院政を行ったことで知られるが、天皇を操って事実上の専制君主として振る舞った人物である。結果としてそれが武士の台頭を促し、図らずしも古代社会から中世への変革を促したことになる。

白河天皇

 1086年白河天皇は突如として譲位を発表する。即位して14年、34歳という若さで退いて上皇となった白河上皇は、天皇位を8歳の息子の堀川天皇に譲る。これは当時の事実上政治を仕切っていた藤原摂関家から権力を取り戻そうという狙いがあった。当時の天皇は事実上摂関家に支配されていて直接的な権力は行使できない立場だった。そこで白河上皇は息子の堀川天皇(後には孫の鳥羽天皇)を立てて自らがそれを後見することで政治の実権を掌握したのである。白河上皇は院の御所を設置し、そこに非摂関家の近臣を集めて朝廷に命令を下すシステムを作り上げる。

 

 

自らの権威を高めていった白河上皇

 白河上皇は平安京の外、鴨川の東の現在平安神宮がある辺りの白河に法勝寺という寺院を建立する。ここには八角形をした高さ81メートルの九重の塔を建てた。この巨大な塔は街道からも御所からも見えるもので、まさに白河上皇の権威の象徴だった。

 まさに白河上皇の人となりを象徴するエピソードとして、寵愛していた后が若くして亡くなった時、彼は后のそばを離れず亡くなっても遺体を抱きしめていたという。死の汚れを恐れた近臣が「天皇が死者といる先例がない」と言ったところ、白河天皇(当時は天皇)は「それなら私を先例にすれば良い」と答えたという。先例にとらわれず自分のやり方を通す人物であったという。

 白河上皇は平安京の南に鳥羽離宮という宮殿も作り上げた。白河上皇が自らの御所として作り上げたもので、その庭園は平安京の面積の1/6も占める大きなもので、その庭園を造るために大規模な土木工事を実施した。そして近臣たちの屋敷もその中に移転させ「まるで都が移ったようだ」と言われた。この資金は白河上皇が国司の人事権を握っていたことによるという。国司になりたい者は白河上皇に接近を図ったことから必然的に白河上皇の元には富が集まった。白河上皇の人事権は藤原家よりも強く、関白の藤原師通が亡くなった時、その息子に地位を引き継がするのに6年もかけたという。白河上皇の権威は既に専制主になっていたという。

 

 

白河上皇の前に立ちはだかった宗教勢力

 しかしその白河上皇でも意のままにできなかったのが宗教勢力だった。延暦寺などの大寺院の僧侶らが武装した挙句に神輿を担ぎだしての強訴が頻発していた。

 白河上皇はこれに対抗するべく独自の兵力を持つようになる。この時代に勢力を伸ばしていた源氏や平氏の武士を身近に置いて、北面の武士という親衛隊を結成することになる。そして1095年、延暦寺の僧侶が美濃の国司の罷免を求めて1000人が強訴で鴨川まで押しかけてくる。ここで白河上皇の選択として、武力で鎮圧するか、それとも一部要求を呑んでも交渉でことを収めるかである。

 これに対してのゲストの考えは圧倒的に「武力鎮圧」であった。そもそもカルト宗教が大嫌いな私も同様に「武力鎮圧」。カルトは頭に載せるとタチが悪いので徹底的に叩き潰せという考えである。もっともこれは現代の合理主義精神が身に沁みついている私だからこそで、未だに迷信の強い中世の人物にこれができるか。しかし白河上皇の選択も「武力鎮圧」だった。「神輿を担いでいてもはばかることなく排除せよ」という指示を下したという。この指示を受けて鴨川河岸に防衛線を敷いた武士たちは、僧たちが川を渡ろうとしたところで一斉に矢を射かけたという。これで僧侶側は4人が死亡、ひるんだ僧侶たちは慌てて敗走したという。だがこれで強訴が終わることはなく、むしろさらに激しくなったという。白河天皇は結局は強訴を完全に鎮めることができないままこの世を去る。死体を掘り起こされることを警戒した白河天皇は、火葬を選んだという。

 結局はこの後、強訴対武士の対決という時代となり、保元・平治の乱を経て武士が台頭してくる時代となる。

 

 

 以上、強烈な権力者白河天皇だが、その行使した権力が大きかったが故に時代が力の時代に変わっていき、それが武士の台頭につながったという。白河天皇もまさか自分が平安時代を破壊するきっかけになるとまでは考えていなかったろう。

 それにしても院政って、表向きはトップを退いた者が裏から謎の影響力で支配するっていう、いかにも日本的な曖昧な権力形態である。現代でも社長を退いた後に会長として実質的に社長に指示を出すってパターンが、特に親族企業なんかに多くて、それを「院政」と言ったりするし、政治の世界でも院政的に本人は既に引退しているはずなのに、現役の連中に隠然とした影響力を持っているという輩はいる。こういう権力形態は一種の無責任形態でもあり、表のトップは別の人物だから責任はそっちに行ってしまうということになりがちなので、コンプライアンス的には非常に問題が多いのですが。

 なお宗教勢力の武装蜂起はこの後も続いて、結局はそれを完全に排除するのは信長による本願寺合戦、さらには秀吉による刀狩りということになります。これで表立って宗教勢力が武装蜂起することはなくなりましたが、それでも隠然と政治に食い込むということはありました。戦前には国立宗教の国家神道なる怪しい信仰が登場して日本丸ごとカルト国家化したんですが、その反省から戦後に政教分離原則が導入されたわけですが、それでも今日ではあからさまにカルト宗教支配下にある政党が与党に存在し、もう一方の巨大与党も実は反日カルト教団の支配下にあったということが判明した次第。とかくカルトはタチが悪い。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・白河天皇は、8歳の堀川天皇に譲位して上皇なると、自ら天皇に影響を及ぼすことで実権を掌握する体制を築く、これがいわゆる院政である。
・白河上皇は自身の権威を示すために、法勝寺に高さ81メートルの巨大な塔を建造する。さらには平安京南に自らの御所を建造したりした。
・白河上皇の財力は人事権を掌握していることに基づいており、藤原摂関家も全く及ばない専制主となっていた。
・しかしこの白河上皇も、武装化して神輿を担いで強訴してくる巨大寺院勢力にはてこずっていた。
・そこで白河上皇は武士を身近に置いて、北面の武士として自らの親衛隊とする。
・そして延暦寺の僧侶が美濃の国司の罷免を求めて強訴してきた時、ついに武士たちに武力鎮圧を命じる。
・この時の強訴は鎮圧に成功するが、その後も強訴は止むどころかさらに過激化することになり、結局は白河上皇は最後まで強訴を完全に封じることには失敗、やがて時代は武士が台頭する時代へと移行していく。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・天皇って、存在感の薄い人が多いって印象ですが、たまに今回の白河天皇のように「やる気満々」な人が現れると、逆に世の中かき乱してしまうってことがあるんですよね。やたらにやる気満々な天皇と言えば代表格は後醍醐天皇でしょうか。まあ鎌倉幕府倒すところまではやったんですが、結局はその後を治めることには失敗しました。天皇って一般社会から完全に隔離されてるんで、悲しいかな最後の最後で現実離れしてて失敗しちゃうんですよね。

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