幕藩体制を固めた家光
最近になって奇妙なウサギの絵が評判になったのが徳川三代将軍の家光。ハッキリ言ってド下手な絵なんだが、この番組的には「自由な意志の表明」と見る。まあ家光は絵画が好きだったらしいんだが、これは典型的な下手の横好きである。さて家光は徳川幕府の幕藩体制をガッチリと固め、その後の幕府存続の基盤を整備したことになるのだが、家光個人のことについて云々されることは意外と少ない。そこで今回は家光の人となりに迫ろうということのようである。
両親に疎まれて家康の裁定で将軍に
家光は関ヶ原の合戦の4年後に秀忠と江の間に長男として生まれた。幼名は家康と同じ竹千代。次期将軍になるべき人物なのだから寵愛を受けた・・・とならず、江が弟の国松を溺愛したことから両親に疎まれることになってしまう(竹千代は春日局が育てたが、国松は江の元で育てられたことも原因にあるという)。国松は才気煥発で武芸にも秀でていたが、竹千代は病弱で内気であり将来が不安視されていたという。
しかし竹千代を次期将軍に定めたのが家康だった。家康は長子相続のルールを明確にすることで、後々の将軍位争いをなくそうと考えていた。秀忠も家康の指示に従う。家光は1623年に20才で3代将軍に就任すると、秀忠の死後に政治の実権を握ることになる。家光は居並ぶ大名達に、自分は生まれながらの将軍であると宣言し、大名を一人ずつ茶室に招いて刀を渡して抜かしてみせたという。つまり「俺を殺すつもりなら殺してみろ」ということであり、これはまさしく力の誇示であった。また家光は加藤家を改易にするなど、44家の大名家を改易にしており、「強い将軍」としての権威を見せつけている。
だがこれは本来内気な家光にとっては精一杯の虚勢であり、精神的ストレスが大きかったのは想像に難くない。元々身体も丈夫でなかったことから、加藤家改易の翌年には体調を崩して危篤状態になった。一命は取り留めたものの、その後も体調不調は続いたという。オランダ商館長が家光の病気は大量の飲酒が原因であると記している。ストレスの大きい家光は夜な夜な大量の飲酒をしていたようである。
さらに弟の忠長(国松)の問題が発生する。忠長を担ごうとする陰謀が発覚、さらに彼らが朝廷の一部とも結びついていることが明らかになる。これは家光にとっては看過しがたい脅威であった。家光は忠長を非情の決断で切腹させる。
体制を固める中で島原の乱が勃発
政治面で家光は老中制を敷いて政務の責任者を明確にし、さらに武家諸法度を制定して大名の守るべきルールを決める。さらに家光が取り組んだのは日光東照宮を整備して家康の神格化を強めることだった。徳川を頂点とする体制を盤石のものにしようとしたのである。そんな矢先に島原の乱が発生する。この乱で幕府軍が敗北して指揮官の板倉重昌が戦死するという事態に陥る。これは家光をも驚かさせた事態だろうという。この反乱の中心となったのはキリシタンだが、宗門改で改宗してたキリシタンが元の信仰に立ち返ったのだった。同様のことは全国で起こる可能性もあった。もしそうなると幕藩体制の根幹をも揺るがせかねない事態だった。さらに外国をも巻き込む可能性も含んでいた。これに対して家光は腹心の松平信綱を派遣して対応させる。信綱はオランダ船に砲撃をさせて一揆勢の戦意を挫いてから、総攻撃で一揆勢をなで斬りにする。こうして乱は力尽くで鎮圧される。
しかしその1年後、江戸城内でキリシタンの武士が刃傷沙汰を起こすという事件が発生する。キリシタンの恐ろしさが身に染みた家光だが、ここで彼の決断である。まずキリスト教を容認するか、それともキリスト教を禁止するかである。
これに対してゲストの見解は真っ二つに分かれたが、容認派の方も無条件ではなくてある程度の枠をはめた上で黙認という形を主張していた。なお私の見解はポルトガルの布教は侵略と裏表なので断固禁止しかないと考えている。なお磯田氏が言っていたように、ポルトガルを完全に封じた上で日本のキリシタンを孤立させたら、段々と日本向けにアレンジされた形の宗教に変容するというのはあり得る話とも感じる。いわゆる世俗化というやつで、実は宗教の形式としてはこれが一番穏当な形態。とにかく原理主義ほどタチが悪いものはない。そういう意味でキリスト教原理主義であるカトリックとは絶対に切り離す必要がある。
そして家光はキリスト教を禁止し、ポルトガル船の来港を禁じた。こうしていわゆる鎖国体制が完成する。その一方で家康の神格化を進めていったという。家康こと東照大権現はついに天照大神、八幡神と一体にされたという(天照大神は天皇の祖先ということになっているから、家康を権威の上で朝廷と一体化したとも言える)。こうして家光は幕藩体制の基盤を固めることになる。
まあなんだかんだと賛否両論はあるが、家光は幕府体制を固めることには貢献してます。もっともこれらの構想がすべて家光の頭から出たとは考えにくく、彼が整備した幕府の統治体制の中から官僚的な連中が成長してきたということでしょう。
なお島原の乱は家光に衝撃だったと思われるが、実際に幕藩体制をひっくり返しかねない騒動だったのは事実。ただあの時にポルトガルが力があったら、実際にこれを好機に介入して日本の実質的植民地化に動いていた可能性はある。実際はこの時のポルトガルはスペインとゴタゴタあってそれどころでなかったわけで、それはある意味で日本にとっては幸いだったのだろう。
忙しい方のための今回の要点
・家光は母の江が弟の国松を偏愛したことで廃嫡の危機もあったが、家康の裁定によって将軍に就任することになる。
・20才で将軍となり、秀忠の死後に実権を握ると、大名に対する統制を強めると共に、老中などの制度を定めて幕藩体制を固めていく。
・しかしその家光に衝撃を与えたのが島原の乱。大規模な反乱に幕府の討伐軍が敗北する事態に、家光は懐刀の松平信綱を派遣して、一揆勢をなで斬りにする。
・家光はキリシタンに対する統制をさらに強化し、ポルトガル船の来訪を禁止して鎖国体制を敷くと共に、家康を天照大神や八幡神と一体化させて神格化を進めていく。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・日光東照宮って、家康が神であることをアピールするためのテーマパークでもあります。もっとも当の家康は神様とするにはあまりにも生臭いですが。
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