教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

6/21 BSプレミアム 英雄たちの選択「天下人を生んだ一族 三河松平家の実像」

松平家の祖である謎の人物親氏

 今回は家康の御先祖の話。しかしこれが意外なほどに記録が残っていないらしく、その代わりに家康から逆算しての変な伝説ばかりがあったりするとか。そこをなるべく実像に迫っていくとしている。

 家康の先祖といえば三河松平家だが、その発祥の地は豊田市の山奥の松平郷だとされる。そして始祖とされるのは松平親氏である。地元では没後600年を記念して銅像が建てられたが、そもそも肖像画とかが全く残っていないので、地元の人々の顔を集めた上で、松平家の肖像などと比較して想像で建てたらしい。ただなぜかどことなく異国的な顔立ちで、家康の先祖というよりは浴場技師のローマ人のようである。

何となく日本人っぽくない親氏

 三河物語によると親氏は源氏の末裔で時宗の僧だったという。なお地元の資料によると、地元の松平太郎左衛門尉家という富裕な家の当主が連歌会を催した時に、1人の旅人が参加して連歌の才や教養を示したので、屋敷に住まわせて娘婿として迎え入れた。それが親氏だという。親氏は婿に入ると松平家の経済力を活かして中山十七名という山間部にまで領地を広げた。そして松平郷に城を築いて領主のような存在となったという。

 

 

松平家の権威を上げた信光に、中興の祖である清康

 親氏の後は弟が継ぎ、三代目が親氏の子である信光。信光は三河で強い影響力を持つ足利氏への接近を図り、将軍の側近である伊勢氏の家臣となることで足利将軍家との関わりを持つことになる。その結果、幕府の命を受けた活動を三河で行うことになり、松平家の権威は上がっていくことになり、三河武士を束ねる存在になっていく。この時に本多氏や酒井氏が配下に加わったという。こうして信光は三河の1/4を従えることになったという。85才で信光は亡くなるが、生涯で48人の子を儲け、その結果として十八松平と呼ばれるほどに分家が乱立することになり、それが後の当主の頭痛の種となる。

 時代は下り、七代当主となったのが家康の祖父に当たる松平清康。松平家中興の祖ともいわれ、家康は彼を尊敬していたとのこと。だが13才で家督を継いだために彼を当主として認めない者も多く、その船出は困難なものであったという。実際に叔父に当たる松平信定が実権を握っていた。清康は信定に対抗するために敵対していた岡崎松平家の婿養子となって岡崎の地を得ると、各地に進出して10年足らずで三河全土を制圧する。清康は武勇に優れていたとされるが、紛争の仲裁の役を果たすなどで各地の紛争に介入しながら立場を高めていったと近年は考えられている。また領国経営でも岡崎の城下を楽市で繁栄されるなどの手腕を発揮したという。また新田氏の分家である世良田氏を名乗ることで三河支配の正当性を喧伝したという。なお家康の徳川も新田の分家である得川から取ったものだという。

 

 

尾張進出を巡る清康の決断と思わぬ悲劇

 三河の周辺には大国がひしめいていたが、西隣の終わりでは清康と同い年の織田信秀(信長の父)が台頭、織田家では内紛が勃発していた。清康はこの期に乗じて尾張に侵攻することを考える。ここで清康の選択、尾張侵攻を実施するか、信定などの内部の反対勢力を押さえることを優先するかである。

 これに対して番組ゲストの意見は分かれたが、侵攻するべきという意見は、今が一番のチャンスであるということと外敵を作ることで内部の結束を図るというものであった。これに対して磯田氏は「急ぎすぎ」ということを言っていたが、結果として清康の生涯は万事が「急ぎすぎ」だったことになる。

 で、清康の選択であるが、1000人を率いて尾張領内の守山城に進駐する。信秀に近かった信定は尾張侵攻に反対して協力しなかったという。そして清康が守山城に到着した夜に大事件が発生する。清康が重臣・阿部大蔵の息子に殺害されてしまうのである。清康享年25才だった。清康の死後には信定が岡崎城を乗っ取って主導権を握り、清康の10才の息子の広忠は三河を追われて各地を転々とすることになり、岡崎城に戻って当主になれたのは信定の死後である。

 ようやく岡崎城に戻って嫡男の竹千代も生まれた広忠であるが、今度はその広忠が24才で家臣に殺されてしまう。その後、松平家は今川に従属することになり家康は人質となることになる。そして最終的には天下人になることになる。

 

 

 以上、三河松平家について。これを見ていると家康の祖父の清康がすごすぎるのだが、実際のところは伝説的なものも多くて真相がはっきりしないところが多々あるようである。ただ25才で殺害されたにもかかわらず中興の祖といわれているのだから、確かにいろいろと「急ぎすぎた」のは事実のようであり、だからこそ内部に軋轢が生まれて謀殺されることになったのだろう(まず間違いなく黒幕は信定だろう)。

 家康が松平を継いだ時には松平は周囲の圧迫に苦しんでいる状況だったが、やはり祖父に父と2人続いて若くして殺害されているというのは大きすぎる。こういうのを見ると「忠義心に富む三河武士団」ってのは後世のでっち上げだったってことが分かるが、まあこの辺りは家康による洗脳のようなものだろう。逆に言えば、それまでバラバラだった三河武士団が家康の時に初めて結束できたと言うべきか。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・三河松平家の祖である親氏は、松平家に婿養子として入って、松平家の財力を有効活用して領地を広げて領主となった。
・三代目の信光は足利家とつながりを作ることで松平家の権威を高め、三河の1/4を従えるところまで拡大した。しかし子どもが多く、その結果として十八松平と呼ばれる分家が乱立することになる。
・七代当主で家康の祖父になる清康は中興の祖ともいわれ、家康も尊敬していた人物であるが、13才で当主となったために当主と認めない家臣も少なくなかった。
・清康は岡崎松平に婿入りして岡崎を本拠にすると、周囲に進出して10年足らずで三河全土を制圧する。
・その頃、西隣の尾張では織田信秀の台頭で内紛が勃発、清康はこの期に乗じて尾張侵攻を果たす。
・しかし清康は守山城で家臣に殺害されてしまう。享年25才。岡崎城は信定に乗っ取られ、清康の10才の息子の広忠は三河を追われて各地を転々とすることになる。
・信定の死後、広忠は岡崎に戻って当主となるが、24才で家臣に殺害されてしまい、その後の松平家は今川氏に従属することになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・どうしても「神君家康公」に絡む歴史文書は虚飾が多くて「ホンマかいな?」というのが増えてきます。今回はなるべく客観的事実を並べたようですが、それでも怪しいところは随所にありますね。

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