教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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7/5 BSプレミアム 英雄たちの選択「浅間山大噴火~天明3年・驚きの復興再生プロジェクト~」

浅間山天明の大噴火での災害復興プロジェクト

 活火山である浅間山は天明3年(1783年)に大噴火を起こし、周辺地域に甚大な被害をもたらしている。この時に復興のために幕府から送られた官僚が根岸九郎左衛門である。彼が取り組んだ復興プロジェクトとは。なお浅間山噴火に関する話は以前にヒストリアでも登場しており、内容的には今回のものと被る部分がある。

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 浅間山北側の鎌原地区では天明の噴火では小高い丘の上の観音堂に逃げ延びた93人のみが生き残り、村人477人に馬165頭が犠牲になったとされる。44年前の発掘調査で現在の石段の下の部分に母親を背負って逃げようとしていたとみられる女性の死体が見つかっている。

 鎌原村は田沼意次による商業振興によって、信州街道の宿場町として栄えていた。しかし浅間山の火山活動が始まる。当初は慣れっこだった人々が突然の大噴火に巻き込まれる。鎌原村は土石流れを引き起こし、鎌原村はこれに飲み込まれることになる。そして土石流れはそのまま吾妻川に流れ込み、天明泥流を発生させて周囲の村々を飲み込んだ。長野原町では八ッ場ダム建設の発掘調査の際に、まさに普通の生活の最中に突然に泥流に襲われたことを示す遺品が多数見つかっている。

 

 

復興の陣頭指揮に当たった官僚と支援した名主たち

 甚大な被害に幕府は直ちに勘定吟味役の根岸九郎左衛門を派遣する。根岸は60人近い配下と調査を開始する。根岸は詳細に被害を調査して幕府への報告書を作成する。そこには生存者に対する詳細な記録も残されていた。根岸は復興支援として地元民に賃金を支払っての泥よけ作業に取りかかった。子供にまで賃金はしっかり支払われたという。また橋の修復はあえて後回しにして、地元民に渡し船を運航させた。生存者に仕事を与えることで生活を支援したのである。

 最大の課題は最大の被害を出した鎌原村の復興だった。家々は完全に流され、村人にも甚大な犠牲が出ており、家族全員が無事だった世帯は皆無だった。行き場をなくした村人たちは、被害を免れた大笹村と干俣村の名主が世話をした。大笹村の名主で宿屋を営んでいた長左衞門は自宅を開放して炊き出しを1ヶ月にわたって続けた。商人だった干笹村の小兵衛は翌朝には160俵の米を買い付けて炊き出しを始め、囲炉裏を4つ設けた広さ100平米の避難小屋を作った。根岸は1年後に書き始めた随筆の耳袋に小兵衛の「我、身上を捨てて難儀のものを救くひ可然」という言葉を感動と共に記している。

 

 

村の再興のために選んだ大胆な策

 ここで根岸の選択である。このまま村人をそれぞれの村に分散させて移住させるか、それとも元の村を再び再興させるかである。これに対してはゲストの意見は分かれたが、多数派の意見は村の再興。やはり当時の農民の土地への執着は非常に強いということを考慮してのものである。そして根岸も村の再興を選択する。妻を失った者には夫を失った者と結婚させ、親を失った子は子を失った親が養育することにして新しい家族を結成させたという。こうして93人は新しい家族として一体となって再出発したのである。鎌原村では平等に土地分配をして新たな家族による復興が支援の元に始まる。この地では今でも当時のことを伝える歌を歌って、先祖の苦労を偲ぶ祭があるという。なお村人を助けた2人の名主には幕府から褒美状が渡され、名字が子孫代々まで許され、一代に限り帯刀が許されることになった。今でもその子孫がキャベツ畑を作っている。

 なおこの数年後に利根川氾濫の大洪水が起こっているが、それは浅間噴火による火山灰のせいで利根川の川底が上がったことが原因であり、浅間山の噴火が影響しているという。さらに天明の大飢饉、疫病の流行などの複合災害が発生し、これが田沼意次の失脚につながることになる。

 

 

 当時の幕府官僚の能力の高さ(根岸は現場の叩き上げらしい)と地方の名主の名士としての意識の高さというのが印象に残るエピソードである。今の日本に、これだけ地元の人のためにと必死の施策を施そうとする官僚や、地域のために私財をなげうつような有力者なんているだろうかと思うと頭が痛くなる。今の日本なら、このドサクサに紛れて中抜きを狙うような奴しかいないように感じられる。

 それにしてもバラバラになった家族を強引に再結成というのも大胆だが、これって地縁がかなり強い当時の集落だから可能だったんだろう。当時の村と言えば、ある意味で既に村が丸ごと家族みたいなところがあったから、このような強引な手法も取り得る余地があったんだろうと思われる。今だったら流石に人権問題だし、そもそもここまで集落への帰属意識が強くないから、あっという間に各地に散っていくだろう。震災でやられた東北なんかも完全に人口回復は出来てないようだし。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・天明3年(1783年)の浅間山の大噴火では周囲の村々が甚大な被害を受け、特に鎌原村では村人が477人が犠牲となり、生存者は93人という壊滅的な被害を受ける。
・復興のために幕府から派遣された勘定吟味役の根岸九郎左衛門は、泥よけ作業に現地の人々に賃金を払って動員し、また意図的に橋を復旧せずに村人に渡し船を運営させるなどして、現地の人々に仕事を与える形で復興を支援した。
・鎌原村の生存者は近くの大笹村と干俣村の2つに分かれて名主が私財をなげうって支援をしていた。
・根岸は村人を元の村に戻して復興させる道を選択する。そして夫を亡くした者と妻を亡くした者を結婚させたり、親を亡くした子を子を亡くした親に養育させるなどして家族の再結成を行った。
・村人は幕府の支援の元で一丸となって復興に取り組み、それはその後も続いた。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ復興の方法として「現地の人にとって何がベストか」という考え方をしているのが今の役人よりも優秀なところです。江戸時代の幕府の官僚って、ダメな奴は世襲でトコトンダメでしたが、こういう叩き上げの優秀な者も少なからずいたようです。今の日本の政治家は世襲の馬鹿ボンが大半ですが。

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