教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

7/19 BSプレミアム 英雄たちの選択「戦国パイレーツ 里見一族の野望」

弱小?戦国大名里見氏の興亡

 今回の主人公は安房国の戦国大名里見氏。と言っても絵に描いたような弱小大名のイメージしかなく、ゲストも「信長の野望の最初に出てきて・・・」と言っていたが、まさに最初にしか存在しない大名で、何しろ本土に打って出ようにも強大な北条氏が行く手を塞いでいる上に、自身の能力も配下の能力も国力も惨憺たるものというわけで、序盤の数年で北条に滅ぼされるためだけにいるような大名である。里見氏で天下を統一するのはウルトラS級(事実上不可能)と言われているぐらい。と言うわけで惨憺たるイメージなのだが、この番組ではいやいや里見氏はそんな無視できる大名ではないというわけである。

     
このシリーズなどではあまり扱いが良いとは言えない里見氏ですが

 里見と言えば里見八犬伝であるが、このような物語が作られるのには、それだけの理由があるというのである。実は名門大名であり、理想の政治のあり方を追い求めた人物であったという。また海賊衆をまとめて関東の制海権を抑えるべく、北条と対等に渡り合っており、江戸時代になって滅亡した後も江戸の人々に鮮烈な印象を残しているのだという。

     
薬師丸ひろ子が出演した懐かしの映画もあります
     
しかしやはり小説で読むのが王道でしょう

 

 

海の名門里見氏

 里見氏が支配するのは房総半島の先端の安房国。江戸湾を挟んで対岸には北条氏が勢力を伸ばしていた。里見氏は海を越えて北条の領地に攻め込んで鎌倉の鶴岡八幡宮を焼きはらうなどもしたという。

 里見氏は源義家の末裔だという。家紋は足利氏と同じ二つ引き両であり、足利一門である。古河公方から関東の秩序を守るべく安房に送られたと考えられるという。里見氏はこの「他の大名より家格が高い」という意識を持ち続けていた。里見氏は海岸に海城を築いて沿岸を支配した。金谷城は江戸湾がもっとも狭くなる位置にあり、江戸湾の船舶を支配するために重要な拠点であった。平地が少なく農業に不向きな安房では、海の支配しか生き残る方法はなかったという。船の通行料を取ることで収入を得ていたのである。そうなると当然のように対岸の北条氏とは海の支配を巡って対立することになる。大兵力を擁して大型の安宅船を所有する北条に対して、里見氏は機動力の高い小舟である関船や小早舟を中心にゲリラ戦を行っていたと考えられるという。北条水軍は傭兵に頼っていたのに対し、里見は地元の海賊衆を取り込んでいたので地の利は里見にあったという。

 

 

北条との争いの中、悩んでいた里見義堯

 里見の勇名は関東中に届くことになる。そして里見義堯の頃に最盛期を迎える。なお義堯の名は中国の理想の皇帝とされる堯から来ており、息子は義舜で同じく中国の皇帝である舜から来ている。そして実際に尭や舜のような徳に満ちた政治を目指したという。

 里見義堯は江戸湾の覇権を巡って北条氏と争っており、海城にはかなり堅固な防御設備を施している。このような海城を江戸湾沿岸や河川の要衝に築いて関東の支配を試みた。しかし北条の抵抗も強固になり、1538年の国府台合戦では里見軍は手痛い敗北を喫する。また久留里城と佐貫城を奪取したものの金谷城を失うなど一進一退となった。しかし当時の安房国では自然災害による飢饉が毎年のように発生し、領民は疲弊するばかりだった。この現状に対して義堯は妙本寺の日我上人との間に「大俗の上において殺生等の悪事は止められず、此くの如き悪逆をなしても後世を助くべく候や」と問答したのが残っている。義堯は災害の復興に力を入れたりしていたが、いつまでも戦いを続けざるを得ないことに忸怩たる思いを抱いていたのだという。

 

 

生き残りのために上杉と手を組むが、それが新たな火種を生む

 1556年頃、義堯は家督を息子の義弘に譲る。大御所として久留里城を本拠とするが、大軍を率いた北条氏康に包囲されてしまう。圧倒的兵力差に窮地に陥った義堯は一計を案じて上杉謙信に支援を請う。こうしてこの危機はのりこえるのだが、ここで謙信に借りを作ったことが後々に響いてくることになる。

 1563年、北条氏康が武田信玄と手を組んで上野国に出陣、謙信はそれを抑えるべく関東に出陣、里見にも出陣を求めてくる。しかし義堯らはこれを渋り、それに対して謙信は先の支援をちらつかせて催促をしてくる。やむなく義堯らは犠牲を覚悟で出陣するが、海を渡ってきた北条勢に敗北して多くの村落が破壊されることになる。

 3年後の1567年、里見軍は三船山の戦いで北条軍に大勝利を収め、これを期にして反転攻勢をかける。しかしこの時に謙信が北条と和睦するように言ってくる。北条と武田との同盟関係が崩れ、謙信が北条と同盟することになり、その際に里見の扱いが問題になったのだという。この謙信からの要請に対して義堯らはどう答えるかが今回の選択。謙信の和睦要請を受け入れるかどうかである。

 

 

謙信と袂を分かつが天下の激変の中で取り残されていく

 ゲストらの意見は分かれたが、拒絶派は要請を受け入れると足利の秩序に従っていた里見氏がその大義名分を失うというもので、受諾派は現実問題として謙信の支援なしで北条と戦うのは不可能というもの。で、里見義堯であるが要請を拒絶する。名門意識が強かったので、謙信から格下扱いされたのが我慢ならなかったという。そして里見氏は武田と結ぶ。1571年、里見水軍は海を渡って三崎沖で北条水軍に勝利して金沢まで侵攻、さらには海を渡ってきた北条軍を破って下総まで勢力を盛り返す。

 しかし時代の変化が里見氏を襲う。信玄の没後に武田は衰退、里見氏は北条氏に押されるようになる。そして1574年に里見義堯死去。義弘は3年後に北条に屈する形での和睦を余儀なくされ、領土は房総半島の南に押し返されることになる。そして時代は加速する。1588年に豊臣秀吉が海賊禁止令を発布、これで海賊衆が活動の場を奪われる。その2年後に秀吉によって里見の宿敵だった北条氏が呆気なく滅ぼされる。里見氏は関ヶ原も何とか生き延びるが、1614年に倉吉に転封され、8年後に当主死亡で改易される。こうして名門里見氏は歴史から消える。しかし江戸湾の覇権を争い、意地を通して滅んでいった里見氏の存在は江戸の人々の記憶に残り、それが滝沢馬琴の南総里見八犬伝につながったと言えるとのこと。

 

 

 以上、関東の弱小大名(のイメージしかない)里見氏の興亡について。まあこうやって特集したら、信長の野望での北条の噛ませ犬イメージしかない里見氏でも、それなりのドラマはあるということである。磯田氏が信長の対極と言っていたが、確かに信長はまかり間違っても、自分が合戦で領民を苦しめていると思い悩んだりはしないだろう。まあある種の不器用な真面目さを持っていたのが里見義堯のようである。見ようによっては己の信念に殉じた硬骨漢とも、時代の流れが全く見えてなかった愚者ともいかようにも言える。

 秀吉の海賊禁止令がきっかけとなって本格に没落というのは、瀬戸内の村上水軍を仕切っていた村上武吉と同じ経緯を辿っているようである。しかしそもそも秀吉の海賊禁止令が想定していたのは本来は村上水軍であるから、里見水軍なんかはとばっちりみたいなもんだが。むしろ里見が安房で頑張っていたら、秀吉としては家康を牽制するには好都合だったと思われる。だから本当の正念場は家康の天下になってからで、徳川としては江戸湾の入口に陣取っている里見をそのまま放置できるわけはなかったのだから(安房の里見氏は徳川にしたら、ロシア黒海艦隊の出口に陣取っているウクライナのようなもの)、そこで磯田氏も言っていたように「早めに領地替えを願い出ていたら、もっと石高の高い良いところに移れた可能性もあるのに」という話でもある。まあそういう融通が利かなかったのが里見氏の没落の一番の原因ではある。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・安房の里見氏は江戸湾の覇権を巡って北条氏と争い続けていた。
・そもそも里見氏は足利一門であり、古河公方が関東の秩序を守るために安房に送った。そのために名門であるという誇りが高かった。
・安房は海に囲まれた地で平地が少ないことから、里見氏は収入を得るために江戸湾に行き来する船から通行料を取っていた。
・大船が多い北条海軍に対して、里見氏は小舟でのゲリラ戦を得意とした。また傭兵が多い北条海軍と違って、里見海軍は地元の海賊衆のために地の利があった。
・里見義堯の頃に里見氏は最盛期を迎え、海城を各地に設けて関東支配を試みるが、同じく関東制覇を目指していた北条氏と衝突することになる。
・しかし安房では天変地異による飢饉などが発生し、中国皇帝の尭のような徳治を理想とする義堯には、戦乱に明け暮れることで領民を苦しめることに対する葛藤もあった。
・1556年、家督を息子の義弘に譲って久留里城を拠点とした義堯であるが、北条の大軍に包囲されることとなり、上杉謙信を頼って撃退する。
・しかしその後、謙信の関東出兵で北条攻撃を要請されることになり、大きな被害を出すことになる。
・1567年、里見軍は三船山の戦いで北条軍に大勝利して反転攻勢をかけるが、ここで謙信から北条と停戦するように要請される。
・義堯は里見を軽んずる謙信と決別、武田信玄と組んで北条に対抗する。しかし武田が信玄の死後に衰退、里見は劣勢に陥り、義堯の死の3年後に義弘は北条に屈する形での和睦を余儀なくされる。
・その後、秀吉の海賊禁止令で海賊衆が活躍の場を失い、関ヶ原を何とか生き延びるが、1614年に倉吉に転封され、8年後に当主死亡で改易される。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・結局は悲しき水軍大名ということになってしまいました。海に活路を見出していたが、そもそも国力自体が弱かったので、北条とまともに戦うには動員兵力が違いすぎ。目の前に強力すぎる敵がいたことが一番の不幸でしょう。まあ実際には「信長の野望」よりは粘ったのですから(北条滅亡後まで生き残っている)、悪条件下で頑張った方でしょう。

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