教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

8/9 BSプレミアム 昭和の選択「平和を手放した日~幣原喜重郎 国際協調外交の誤算~」

国際協調路線を取ろうとした幣原

 今回の主人公は外交官として国際協調路線を取ろうとしたが失敗、政治の世界を退いて、戦後に総理に就任した幣原喜重郎である。結局はこの国際協調を目指した幣原路線の失敗が、日本が大戦へと突入した原因でもあるという。

幣原喜重郎(総理就任時)

 幣原は帝国大学を卒業後に外務省に入省して外交官となる。彼は外交顧問のヘンリー・デニソンの影響を受けた。彼の元で外交には自国を有利な立場におくために細心の注意が必要であることを学んだという。第一次大戦後のこの時代は新たな外交の時代が始まっていた時で、幣原はこのような状況下で1921年のワシントン会議に全権として参加する。軍縮と太平洋新秩序構築のための会議だったが、幣原に科されたのは満蒙権益の確保であった。ロシア革命によるロシア消滅で、日本の満蒙権益に対する取り決めが消滅してしまっていた中で、国際協調を行いつつ国益を確保するのがかれの使命であった。

 幣原は四ヶ国条約に満蒙権益を緊切利益(バイタル・インタレスト)として盛り込もうとしたが、これはイギリスによって削除されて実現しなかった。そこで幣原は会議の大詰めで満蒙権益について演説することで記録に残そうとした。これに対して抗議がなかったことで、日本の中国での権益は黙認されたことになった。

 

 

国益と国際協調の狭間での綱渡り

 1924年に外務大臣に起用されると、幣原は中国に対する外交方針を切り替える。それまでの日本は中国に強攻策をとり、張作霖と提携して満蒙権益を拡大することを国策としてきた。これが欧米の警戒を強めることになっていた。これに対して幣原は中国本土へは内政干渉をしないと宣言して欧米との協調を図る。しかしその矢先に中国本土の軍閥である呉佩孚と奉天軍閥の張作霖の内戦が勃発、戦闘が呉佩孚の有利に展開したことから陸軍大臣の宇垣一成が張作霖の軍事援助を強行に主張する。これに対して幣原は中国公使と会見して、列国共同の和平勧告案を提示して中国に受け入れる意志があるかを確認する。中国政府は条件次第でこれを受け入れると言ってきたので、これで中国への内政干渉にならないはずだが、幣原は宇垣に対して和平斡旋の計画を示さなかった。これは呉佩孚側の重鎮が寝返る(日本軍による工作)という情報を得たので和平斡旋を捨てたのだという。幣原は軍の工作を黙認して対立を避けたのだという。

 

 

国際連盟で欧米と衝突、結局は軍部の暴走で調停に失敗する

 1929年、外務大臣に復帰した幣原は中国の革命外交の嵐に直面する。蒋介石率いる中国は日本の満蒙権益の回収に乗り出していた。政府は中国に妥協案を出すが中国がそれを拒絶、日本国内でも政府に対する批判が噴出する。そんな中、満州事変が勃発、軍は戦線を広げて蒋介石は国際連盟へ提訴する。日本が国際的に孤立しかねない状況だが、幣原はむしろこれを好機と捉えていたという。幣原は事変収拾交渉を利用して、満蒙問題の一挙解決を狙っていた。その交渉条件として起案したのが日本の撤兵条件を示した五大綱目だった。しかしこれは欧米には受け入れられないものであり拒絶される。この時にイタリア大使吉田茂から、国際連盟の視察団を派遣させて中国の内情を見せ、出兵に及んだ日本の事情を理解させるという案が提案される。ここで幣原の選択である。中国との直接交渉にこだわるか、吉田の案に乗るかである。

 結局は幣原は吉田の案に乗る。しかし中国では軍が錦州への戦線拡大というぶち壊しになる動きを始めていた。幣原は陸軍参謀総長と連携して関東軍に攻撃中止命令を出してもらい、駐日アメリカ大使フォーブスに作戦中止について説明する。しかし秘密扱いだったはずの情報がアメリカのスティムソン国務長官から発表されたことで国内で報道されて、それが一部軍人を激高させ、軍は暴発する。幣原はこれを収拾出来ず政治の舞台から去る。彼が再び政治の舞台に戻ってくるのは戦後に総理に就任した時だった。日本国憲法の戦争放棄の条文は幣原とマッカーサーの会見の結果だという。幣原は日本が信用を取り戻すにはこれしかないと考えていたという。

 

 

 以上、協調路線で日本の孤立を防ごうとしていたが、軍の暴発でそれに失敗した幣原の話。まあ軍が神聖不可侵の統帥権を振りかざすという政治システムの欠陥を抱えていた日本では、どうしようもなかったと言うところだろう。元々シビリアンコントロールを供えていたら、あのような事態は発生しなかった。

 磯田氏によると、幣原外交の頓挫が一つのターニングポイントとのことだが、正直なところを言うと私には「幣原喜重郎って誰?」である。それだけ重要な人物のようだが、まるで知名度がないってのはこれいかに。まあ現実にはこの時に一旦事態を収拾したとしても、上の日本のシステムの根本的欠陥がそのままで有る限りは、いずれはドンドンと馬鹿の集まりとなっていた軍の暴走で、時期が若干遅れるだけで同じ事態が発生していた気がするが。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・外交官となった幣原喜重郎はワシントン会議において、国際協調を行いつつ満蒙権益を確保するために奔走する。
・1924年に外務大臣に就任すると、中国本土へは内政干渉をしないと宣言して欧米との協調を図る。しかし
・1929年、外務大臣に復帰した幣原は、蒋介石が日本の侵攻を国際連盟に提訴したことで日本が国際的孤立に陥る危機に直面する。ここで五大綱目を起案して中国との交渉に臨むが、それが欧米に拒絶されることになる。
・結局はイタリア大使の吉田茂の国際連盟の視察団を派遣させて中国の内情を見せ、出兵に及んだ日本の事情を理解させるという案が提案に乗ることにするが、軍が暴走して戦線を拡大したことで頓挫、幣原も政界を去ることになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・当時はいろいろな考えが渦巻いてましたが、結局は軍が日本が滅んでも軍の存在を守るというような感じで暴走してましたから、結局はそれを誰も止められなくなった(軍上層部でさえ)ということと、国民もかなり煽られて思考停止していた状態ですから、それに飲まれたというところですね。その日本人の本質は今も変わってないので、要注意です。

次回の英雄たちの選択

tv.ksagi.work

前回の英雄たちの選択

tv.ksagi.work