教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

8/9 NHK 歴史探偵「消えた原爆ニュース」

隠された原爆被害

 夏の定番である戦争関連であるが、今回は原爆について。言うまでもなく原爆投下でおびただしい被害が出たのであるが、戦後にその原爆のニュースが一切報道されなくなった時期があるというのである。言うまでもなくアメリカによる検閲の結果。今回はそのような原爆報道について紹介する。

 この空白の期間は終戦から6年にも及んだという。原爆の悲惨さや放射線の影響などが伝えられることが全くなかったという。このようなことが起こったキッカケは朝日新聞がアメリカの残虐行為を戦争犯罪であると批判する鳩山一郎の発言を掲載したことだという。これに日本を統治していたGHQが激怒、朝日新聞は業務停止処分を受けて2日間の八工程処分を受ける。さらにあらゆるメディアにプレスコードを出して連合国に対しての批判的論調を禁ずる。そして徹底した事前検閲が行われるようになる。当時のアメリカは、原爆についても市民に対して地面に伏せてやり過ごせば大丈夫と、世界で原爆反対の機運が持ち上がるのを警戒して、明らかに過少な報道を行っていたのだという。つまりは原爆の真実が市民に知らされることはまずかったのである(実際に朝鮮戦争などでもアメリカは原爆を使用する気が満々だった)。

当時の一般的アメリカ人の原爆に対して認識を示すのがこの作品

 

 

事前検閲終了後も続く自主検閲、それに風穴を開ける学生たち

 このようなGHQによる事前検閲は3年続く。しかしこれはアメリカが日本に適用しようとしていた言論の自由とは相矛盾する政策であることから、縮小することになったのだという。しかしその後もメディア側が忖度して自主検閲する形で原爆報道はタブーになっていたという。事前検閲はなくなったといってもブレスコードは健在で、メディア側は未だにGHQによる業務停止処分を恐れていたのである。検閲に弱い日本のメディアの体質を象徴することでもあった。

 それに風穴を開けたのが、湯川秀樹博士の話によると京都での大学生たちの活動だったという。キッカケは医学部で病理学の天野重安助教授が行った特別講義だった。原爆の人体に与える影響を調べていた天野は、被害の実態が正しく伝えられていないことに疑問を感じていた。彼は学生たちに放射線障害などの原爆の真実を教えた。そして学生たちは真実を知ってしまった以上は黙っているわけにはいかないと、被害の真相を伝えるために独自の原爆展を開催することを計画したのである。しかしこの計画のために大学の所有する資料を使用することは学生たちの活動に協力したと見られたくない大学側によって拒否される。やむなく独自に広島で取材を始める学生たちだが、被害者たちは心の傷の大きさやさらには周囲からの差別などから取材協力を拒む者が多かったという。

 難航する学生たちの資料集めだが転機を迎える。広島で被爆して背中と両腕に大きな火傷の跡のある吉川清氏が「君たちの平和のための真面目な催し物に感動した。私のこの身体を一般の人々に見せてもよい。」と協力をしてくれたのである。被害の実態を伝えるために深い悲しみを乗り越えて協力してくれる人も出て来たのだという。そして1951年7月に京都で原爆展が開催され、会場に3万人以上が訪れる。その後、あちこちで原爆展は開催され、1年後にはアサヒグラフで原爆の実態を伝える報道がなされ、原爆被害の実態が世間に明かされていくことになる。

 

 

 以上、言論の自由を標榜しつつ自身に不都合な言論は徹底して弾圧するアメリカの卑劣さが良く分かるエピソード。ちなみに日本のメディアの「忖度」とか「自己検閲」の習慣はこの頃から根深くあったのか。道理でメディアの責任者を官邸に呼びつける安倍如きの恫喝でメディアが全て大本営発表になってしまったわけである。日本のメディアの悪しき伝統だったようである。

 それにしてもこの時代の京大生はすごかったなというのが正直な印象。今時の京大生だったら「そんなことしても無駄。」「アメリカ様に楯突いてどうするんだ。もっと現実を見ろ。」と冷笑だけする奴がゾロゾロいそうである。やっぱり戦争で命を落としかけて、下手したらまた朝鮮戦争に動員されるかもという切実さがあったということもあるだろう。

 ちなみにこの報道規制、番組中でも出ていたようにアメリカがもっと原爆をガンガン使いたいと考えていたから、その残虐すぎる実態が知られたらまずいということがあった。実際に朝鮮戦争でも使う気満々だったんだが、それを中止させたのはソ連の核兵器開発の報だった。さすがにアメリカも核兵器の落とし合いになったらまずいぐらいは分かっていたわけである。それがなかったら、朝鮮戦争でもベトナム戦争でも核兵器は使用されていただろう。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・広島の原爆被害の実態は、GHQ支配下の日本では戦後6年に渡って報道されなかった。
・それは反原爆の気運が高まって原爆を使えなくなることを恐れたアメリカによる、報道に対する事前検閲によるものであった。
・3年後に検閲は廃されたものの、未だにアメリカの支配下のメディアは業務停止を恐れて自主検閲されることとなった。
・しかし終戦から6年後、原爆の実態を知った京大生達が立ち上がり、独自の原爆展を企画、大学側の協力は得られなかったが、自ら被爆地を取材する。
・多くの被爆者たちは、心の傷の深さと周囲からの差別などのために取材を拒んだが、それでも学生たちの真摯な態度に打たれて協力する者も現れ、1951年7月に京都で原爆展が開催される。
・原爆展には3万人が集まり、その後も各地で原爆展が開催される。さらには1年後にはアサヒグラフによる原爆被害の報道が行われ、ようやく日本に原爆の実態が広がることとなる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・結局はアメリカのご都合主義と、メディアの腰抜けぶりだけが印象に残る内容だったな。だけどまあそんなもんです。未だにアメリカも日本のメディアもこの体質は全く変わっていない。

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