教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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9/6 BSプレミアム 英雄たちの選択「竹久夢二の関東大震災~100年前の震災スケッチ~」

当初は社会主義運動に参加していた夢二

 竹久夢二といえば夢二式美人と言われる独自の美人画で大正時代に人気を博した画家であるが、その夢二が描いた関東大震災のスケッチが最近になって話題となっているという。

どうやらこれが関係している模様

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 竹久夢二は岡山の瀬戸内市の裕福な農家に生まれる。しかし15才の時に実家が没落、北九州に移住することになって夢二も学校を中退して製鉄所で働く。しかし翌年、画家になることを志した夢二は家族に無断で上京、人力車を引くなどして食いつなぐことになった。

竹久夢二

 この時代は日本の発展と共に社会矛盾が拡大していた時期で、夢二も当時盛上がっていた社会主義運動に参加し、幸徳秋水らと交流を深める。そして幸徳秋水らが立ち上げた平民社の機関誌に掲載した風刺画が夢二の画家としてのデビューとなる。日露戦争で夫を亡くした女性の姿などを描いた。この頃には大衆文化も花咲いた。それが夢二にも影響する。夢二が初めて出した画集は若い女性に受けてベストセラーとなる。

 しかしその翌年に社会主義者の大弾圧である大逆事件が発生する。幸徳秋水らが明治天皇の暗殺を企てたとして逮捕され死刑の判決を受ける。夢二も勾留され、これから社会主義運動と距離を置くようになる。しかしその一方で代表作である「黒船屋」を描くなど、人気画家としての階段を登っていった。社会主義運動から離れたことについては多くを語っていない夢二だが晩年に、左傾した雑誌に描いたのはそれが自分にとって一番切実な問題だからであり、甘い絵ばかり描いたのはパンになるからと語ったという。ここに夢二の描きたいものと求められるもの違いという葛藤が滲んでいるという。

 

 

新展開を目指していた矢先の震災

 夢二は商業デザインの世界に注目し、大正12年には日本の創作版画の第一人者である恩地孝四郎らと広告デザインを請け負う会社を設立した。関東大震災が起こったのはそんな矢先だったという。夢二に協力していた印刷所も瓦礫と化し、これで夢二の構想も吹っ飛ぶことになる。

 この惨状の中、夢二は震災の翌日からスケッチブックを手に被災地に出て行った。そして数十キロを歩き回りながら記録を取っていった。やがてこの記録は東京災難画信として新聞に掲載されることになる。夢二はスケッチと文章として震災の状況を記録したのである。その中には火災竜巻で3万8千人の犠牲を出した被服敞跡もあった。夢二は震災の翌日にもここに足を運んだが、あまりの惨状に何もかけなかったという。ようやく夢二が記録を残したのは亡くなった人々を火葬している風景だった。

 夢二は震災の情報に関するスクラップブックも残されている。中にはありもしない風説を拡散しないように注意するポスターもあった。これは震災直後に流れた朝鮮人が暴動を起こすというデマのことである。このために各地の自警団が朝鮮人などを虐殺する事件が発生していた。夢二は子供たちが自警団ごっこをして朝鮮人に見立てた子供をいじめて遊んでいる風景をスケッチに残している。震災を生き延びた人々の中にも心を病んだり、身を売ることになった女性なども多かったという。夢二はタバコを売っていた娘のことをスケッチに残しているが、彼女がタバコを売ってしまった後のことも案じている。最終回で夢二は荒んでいく人々の心を語っている。

 

 

震災後の夢二

 震災を機に夢二の活動にも変化が現れる。翌年、世田谷にアトリエを建てる。そして雅号も夢二から夢生へと変えたという。新しい芸術の模索を行っていた。しかし時代は金融恐慌など激変をしていき、夢二の人気も昭和に入って急激に落ち込む。昭和5年、夢二は榛名山芸術研究所を設立して、粗悪な大量生産品が溢れる時代に新たな日用品を提案して人々の意識を変革することを目指した(何となく民藝思想に通じる気がするんだが)。そんな中で美術品をアメリカで売って、その金で渡欧しないかという誘いが知人からなされる。

 ここで夢二の選択である。渡欧するか日本での活動を続けるか。これについてはやはり渡欧は夢二の昔から夢であるということで、ゲスト全員渡欧で一致。そして実際に夢二も渡欧する。しかしアメリカはまだ大恐慌の余波で夢二の作品は全く売れずに苦労する。それでもその中で夢二は新しい芸術を模索していたらしい。この時期に描いた油絵が見つかっている。昭和7年、友人や知人のツテを頼りにようやく渡欧、そしてベルリンで日本画を教える教師の職を得、バウハウスの若き芸術家たちと交流するなどの創作活動も始めた。しかしそれを時代が邪魔をする。ヒトラーの率いるナチスの台頭で、伝統的ドイツ芸術以外は否定され、夢二も教師の職を失う。失意のまま日本に帰国する夢二だが、長旅で結核を患い、帰国して翌年にこの世を去る。

 

 

 と言うわけで何とも救いようのない展開である。私は夢二の作品が嫌いなのは「作品の中にどうにも媚びが感じられる」ということが原因なんだが、夢二の話を聞いていると、やはりパンのために受けるべく媚びを加えていた気がする。しかしどうやら夢二の本質は貧しき頃に社会主義運動に接近したというそっちにあったようで、それが震災という大混乱の中で再び面に現れていったんだろう。震災に対する記録は明らかにそちら側の目線に立っており、また夢二自身もそちらの方が自身の本来であることも感じたのだろう。

 そして華やかな大正時代が震災と共に去ると、大正の時代の象徴そのものだった夢二の人気が失墜するというのもある種の必然であり、そんな中で夢二は新しいスタイルを模索したのだが、残念ながら未完のままにこの世を去ってしまったということのようだ。この時に夢二が生き延びてその後を送ることが出来たなら、その時こそまさに胸を打たれるような作品が登場した可能性が高いように思われる。それは残念である。

 ちなみに最近にとみに歴史修正主義者達が、関東大震災での朝鮮人虐殺はデマであるというデマを流布しているようであるが、あらゆる点で記録にしっかりと残っており、今更否定のしようもないのであるが・・・。まああからさまな嘘でも繰り返していれば本当に思わせることが出来るというのが彼らの信念らしいので。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・竹久夢二は画家になるべく身1つで上京し、人力車夫などをして生活をしていた。
・その頃に活発となっていた社会主義運動に傾倒、幸徳秋水ら交流し、平民社の機関誌に掲載した風刺画が画家としてのデビューとなる。
・しかし社会主義運動の弾圧である大逆事件が発生、夢二も勾留される。その後は社会主義運動と距離を置くが、その頃から夢二は人気画家への階段を登り始める。
・夢二は求められるものと、自身が本当に描きたいもののギャップで葛藤し、新たな活動として商業デザインの世界に活路を求める。
・しかしその矢先に関西大震災が発生、夢二の構想も瓦礫と化してしまう。
・震災の翌日から夢二はスケッチブックを手に各地を回って記録を残す。そこには震災の惨状、震災後の生活に苦しむ人々、震災による人心の荒廃などが記録されている。
・震災後、時代が昭和となる連れて夢二の人気も落ち込み、夢二も新しい芸術を求めていくことになる。そんな中で知人から渡欧を持ち掛けられる。
・夢二は渡欧の資金を作るためにアメリカに渡るが、作品は全く売れなかった。しかしそんな中でも新しい芸術の模索は続け、翌年知人のツテなどで渡欧してドイツで日本画教師の職を得る。
・ベルリンでバウハウスの芸術家たちらと交流する夢二だが、ヒトラー率いるナチスの台頭で教師の職も失うこととなり、失意の中で日本に帰国、途中で患った結核のために帰国の翌年にこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・なんか幸運と不運が入り交じったような生涯を送った人物ですが、どうも「自分が本当はやりたいのこれじゃない」感が、一番売れっ子の時から消えなかった人のようでもあります。何となく私が夢二に感じていた違和感が分かったような気がするな。

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