教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

9/13 BSプレミアム 英雄たちの選択「地の果てまで!~ザビエル 日本布教の真実~」

日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの生涯

 今回の主人公は、キリスト教をはるばる日本にまで布教した宣教師、フランシスコ・ザビエル。果たして彼はいかなる動機を持って、遥か辺境の地である日本での布教を行おうとしたのか。なおザビエルについては以前ににっぽん!歴史鑑定でも半分を使って紹介しているが、意外とザビエルをメインにした内容はない。

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 スペインとフランスにまたがってナバラという王国がかつてあり、その国境を守るザビエル城でフランシスコ・ザビエルは産まれた。父はナバラ王国の宰相で母も名家の出身だった。何不自由のない生活を送ってきたザビエルだが、彼が5才となった1511年、スペインの侵攻でナバラはスペインに併合されてしまう。父は失意の内になくなり、資産没収でナバラ城は取り壊しになる。一族の再興を期待されたザビエルは政治の世界でなく宗教界での出世を目指すことになる。1925年パリ大学に進学して哲学と神学を学ぶ。その彼の前に現れたのが後にイエズス会を創設するイグナチオ・デ・ロヨラである。彼は世界中の人々に布教する必要性を説いていた。

ザビエルと言えばこの肖像

 

 

イエズス会を結成するとインドに布教のために赴き、日本人と出会う

 当時は宗教改革の嵐の中で、カトリックは失地回復のために各地に宣教師を送り出していた。そんな時にザビエルは理解者であった母と姉を失う。強い喪失感の中でザビエルはロヨラの世界への布教に関心を示すようになる。そして1534年、ロヨラ、サビエルなどの7人の同志がイエズス会を創設する。

 1541年、ザビエルはインドへの布教のために出発する。1年がかりでインドのゴアに到着すると集団改宗という方法で布教を開始する。これ村人達に説教をして教えを理解出来たという人には洗礼を施すというものであった。しかしこの方法で得たインドの信者は教えを表面的にしか理解していないとザビエルは不満を感じていた。ザビエルは「インドでのキリスト教が存続するのは、派遣された宣教師がいる間だけだろう」と記している。

 インドでの布教に手応えを感じられなかったザビエルは1547年、マラッカで布教していて薩摩から渡ってきたアンジローに出会う。彼との会話でザビエルは知識欲の高い日本人に対して興味を持つようになる。ザビエルは日本の国王(天皇)から許可をもらって日本の各地で布教することを考えた。1549年にザビエルは薩摩を目指すが、日本周辺はポルトガルの勢力が及んでおらず、倭寇の勢力下だったために中国の密貿易船に乗船して日本を目指す。その旅はかなり過酷だったが、何とか薩摩にたどり着き、島津貴久から布教許可をもらう。貴久はポルトガルとの交易によって武器を得ることを期待していた。

 

 

多くの障害に直面しながら日本での布教に励む

 ザビエルは薩摩で布教を行い手応えを感じるが、実はここに大きな誤解があった。デウスをアンジローが大日と訳したために、皆はキリスト教を仏教の一派と考えていた。ザビエルはこれに気付かないまま、他の神を否定してデウスこそが唯一の神と布教して回っていたのである。これに対して仏教界が猛反発、島津に対して異教を禁じるように要求、島津貴久は布教を禁止する。

 ザビエル一行は京都を目指す。しかし京は荒れ果て、天皇の権威は失墜、とても全国での布教の許可をもらえるような状態ではなかった。ザビエルの書簡に京都のことがほとんど書かれていないことに、ザビエルの落胆が覗えるという。

 その3ヶ月後、ザビエルは山口で人々が集まる井戸の周辺で辻説法を行っていた。今までは頭ごなしに他の宗教を否定していたが、今度は様々な西洋の技術を紹介してこれら全てがデウスによって作られたと語って人心を掴んだ。また大内義隆に面会して西洋の文物を送って布教の許可と共に拠点となる建物も得る。しかしここで僧侶が押しかけてきて大論争になったという。僧侶からの問いかけに次々答えるザビエルに対し、ザビエルからの問いかけに僧侶達は答えられなかったという。ここで500人前後を洗礼したとザビエルは書簡に記している。

 

 

本部からの音信不通にザビエルの選択は

 ザビエルに会いたいと豊後の大名・大友宗麟が申し入れて来、ザビエルは豊後を訪れる。キリスト教の教えに感銘を受けた宗麟は布教を許可する。こうしてザビエルは山口に次ぐ拠点を確保する。しかし1551年9月、大内義隆が謀反にあって自害、山口の拠点を失うことになってしまう。またザビエルはイエズス会に書簡を送ってもそれに対する返答が全く来ないことに悩んでいた。そこに平戸にポルトガル船が来港したとの報が入り、ザビエルは平戸を訪れる。しかしそこでも何の書簡も乗せられていなかった。ここでザビエルの選択だが、一旦ゴアに戻ってイエズス会と交渉して布教の体制を強化するか、このまま日本に残って布教を続けるかである。

 これに対してゲストの意見は真っ二つに分かれた。本部と交渉の必要があるという意見と、日本で地盤を築くべきという意見である。そしてザビエルの選択だがポルトガル船でインドに戻る。そしてゴアに戻ると、自ら日本に送るに相応しい宣教師を自ら選択する。そしてザビエルは中国を目指す。それは中国に布教したら日本への布教も容易になるという考えと、中国南部の上川島に立ち寄った時に、インド一帯での布教を支援してくれていたポルトガル商人のペレイラから、彼の仲間が広東に捕らわれていると聞いており、その解放のために中国の国王と交渉することを考えていた。ザビエルは上川島に密入国するが、その後病に倒れてこの世を去ってしまう。

 

 

 以上ザビエルの生涯。ザビエルというのは日本においては存在感が強いので歴史に名が残っているが、実際は日本に滞在したのは2年ほどに過ぎず、さらに今回の生涯を見ていると、意外に中途半端に志し半ばでこの世を去ったという印象が強い人物である。また日本におけるキリスト教の布教も、結局はこの後にキリスト教は禁教にあうわけであり、完全に成功したとはいいがたい。そういう点では評価が難しい人物でもある。

 なお磯田氏は「キリスト教が日本に受け入れられるには、日本に合わせてもっと『溶ける』ことが出来ていたら可能性があったんだが」ということを言っていたのが面白い。この「溶ける」というのは日本に合わせてアレンジされるということのようである。しかしここで日本に合わせてアレンジされたキリスト教と言えば、禁教された後に裏で細々と残った隠れキリシタンの信仰が連想されるのだが、キリスト教が最初からああいう神道や仏教と折り合いをつけたような形に変貌出来たかと言えば・・・まあ無理だろう。ましてやザビエル達が伝えたのは原理主義のカトリックである。どう考えても、土着の野蛮な(と彼らが考える)宗教と折り合いをつけるなんてことは無理だったはずである。そもそもそれが出来たらヨーロッパの世界各地での蛮行ももう少しはマシになったはずである(基本的に邪教徒は根絶やしというのが彼らの考え)。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・ザビエルは元々は小国の宰相の息子であったが、国がスペインに滅ぼされて没落、一族再興のために宗教界での栄達を目指す。
・その過程で世界的に布教を目指すイグナチオ・デ・ロヨラと出会い、やがて彼と共にイエズス会を結成する。
・ザビエルはインドに布教するためにゴアに来るが、そこでの布教ではインド人のキリスト教への理解は表面的に感じられて、手応えを感じることが出来なかった。
・そんな時に日本から来たアンジローに出会い、知識欲の強い日本人に布教することを考える。
・ザビエルは日本周辺は当時はポルトガルの拠点はなく、倭寇の勢力下だったことから中国の密貿易船で渡航する。
・最初は薩摩の島津貴久の許可を得て布教を行うが、やがて仏教僧侶達の猛反発を食らい、布教を禁じられてしまう。
・京に出向いて天皇に全国布教の許可をもらおうと考えたが、京は荒廃し、天皇には権限が全くない現実に打ちのめされることになる。
・その後、大内義隆の許可を得て山口に布教の拠点を得、500人ほどの信者を確保する。さらに豊後の大友宗麟がキリスト教の教えに傾倒して、ここにも拠点を得ることが出来る。
・しかし大内義隆が謀反でなくなり、またイエズス会の本部から全く連絡が来ないことから、ザビエルは一旦ゴアに引き揚げて体制を整えることにする。
・ザビエルはゴアから宣教師を送り込むと、さらに中国経由で布教した方が日本が受け入れやすいと考えて中国を目指すが、その途中で病でこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・正直なところこうやってザビエルの生涯を聞いてしまうと、「中途半端だな」という気持ちがかなりつきまとう。恐らくザビエル本人もかなり心残りのある状態で亡くなることになっただろうなと推測する。結局は日本への布教の足がかりは作ったものの、それが本格的に動くところまでは仕掛けることが出来なかったことになる。

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