教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

9/20 BSプレミアム 英雄たちの選択「家康が師とした王~漢・初代皇帝 劉邦~」

史記より一番有名なエピソードが登場

 どうも現在はNHKの歴史番組はすべて「とにかく無理矢理に大河と結びつけて宣伝しろ」との命が下っているようで、無理くりに家康との関連をつけているが、当然ながら家康が劉邦に直接師事したわけはなく(時代が1000年以上違う)、当時の武将は中国の歴史を学ぶのは基本的な常識であったことを考えると、何も劉邦を参考にしたのは家康だけではない。と言うわけでいきなり無理くりすぎるタイトルに少々苦言だが、今回のテーマは中国の歴史書の史記の中でもほぼメインエピソードと言っても良い劉邦の漢建国に纏わるエピソードである。劉邦の建国物語が盛上がるのは、劉邦が一介の農民から成り上がったと言うこともさることながら、項羽という強力なライバルが存在したことにもある。なお番組では武力の項羽と知略の劉邦という言い方をしているが、現実には劉邦は知略があったわけでなく、劉邦にあったのは人望だけである。知略に関しては劉邦の元に集った知謀の士による。

 

 

始皇帝の死後に大規模な反乱が勃発、咸陽争奪戦となる

 始皇帝による中国統一で郡県制が実施されるなど中国は劇的な変化を遂げていた。しかし過酷な労働などで人々の不満も強まっていた。沛県の劉邦もそんな一人だったが、仕事もせずに金もないのに酒場に入り浸っては酒と女に明け暮れていたが、不思議と人望は高かった。そして劉邦はその人脈を買われて沛県の亭長(今で言う警察署長)に起用され、また地域の名士の娘と結婚する。そんな劉邦の転機は紀元前210年の始皇帝の死去である。これに伴い民衆の不満が爆発して陳勝呉広の乱が発生する。劉邦もこれに乗じて挙兵。この時48才であった。

劉邦

 弱小農民軍の劉邦は楚の国の反乱軍に合流する。そこで出会ったのが将軍の家柄の名門の24才の項羽であった。その王族の末裔を王に据えた反乱軍は本格的に秦の打倒を目指す。この時に最初に関中に達した者を関中の王にするという触れが出る。項羽は秦の20万の大軍を叩くべく鉅鹿に向かう。項羽は船を焼き、3日分の食糧以外は捨て去るという退路を断った2万の軍勢で猛攻をかけ、秦の大軍をうち破る。さらに項羽は捕らえた兵を生き埋めにして殺す。

 一方の劉邦はなるべく戦いを避けて降伏を促す方法をとる。味方にも略奪を禁じ、敵の兵も罰しなかった。劉邦に対して秦の城は次々と降伏し、易々と咸陽に到着してしまう。すると秦の王までが劉邦に降伏、劉邦は秦王の命を奪わなかった。また法三章という簡潔な法令に改める。それまで秦の事細かな法律に基づく苛政に苦しんでいた民衆はこれを大歓迎する。人々は劉邦が王になることを望むようになる。

 

 

何とか項羽から逃げ出した劉邦は改めて項羽と戦う

 しかし劉邦が先に咸陽に到着したことは項羽を激怒させた。項羽にしたら自分達が命がけで秦の主力軍を壊滅させている間に、劉邦が裏口から侵入したというようなものだった。1ヶ月遅れて関中に到着した項羽は40万の兵で劉邦を討とうとする。これに対して劉邦は軍師である張良の意見を入れ、項羽の元に出向いて謝罪することにした。これがいわゆる鴻門の会である。低姿勢で謝罪する劉邦に項羽は気勢を削がれてしまう。そして劉邦は宴会の剣舞にかこつけての暗殺も切り抜けて、九死に一生を得ることに成功する。

 劉邦に代わって咸陽に入った項羽は、秦王の一族を皆殺しにし、秦の王宮に火を放つ。秦の民衆は項羽の行いに幻滅する。紀元前206年、項羽は楚に凱旋すると、西楚覇王を名乗り中国を分割して18人の将軍に各地を与え、かつての封建制の制度に戻す。劉邦には流刑地であった漢中が与えられることになる。劉邦はここで将軍に韓信を起用。韓信は「秦の人々はあなたが王になることを望んでいるから、今東に向かえば秦の地はたやすく平定出来る」と言う。劉邦はこれに従って再び戦いに出ることを決意する。

 領土の分配に対する不満から、項羽への反乱が発生する。この時に劉邦は関中に出兵して瞬く間に関中を制圧する。そして関中の支配は蕭何に任せる。蕭何は秦の行政文書を入手し、秦のやり方に従って関中を支配する。そして劉邦は項羽の本拠である彭城に向かう。多くの軍が途中で合流し、最終的には軍勢は56万にまで膨れあがり項羽が留守の彭城を落城させる。勝利に気をよくした劉邦は財宝や美女を奪って連日宴会をしたという。しかしそこに項羽が精鋭の3万を率いて戻ってくる。寄せ集めの上に緩みきっていた劉邦軍はこれに大敗し、10万以上の死者を出す。劉邦自身も這々の体で逃げ出すこととなる。この時に劉邦は馬車を軽くするために息子を3回も馬車から蹴り落としたというエピソードも残っている(息子は部下が助けた)。惨敗を喫した劉邦だが、能吏である蕭何は血道に兵力の回復に努めていた。そして劉邦は再び項羽に挑むことになる。

 

 

大敗から立ち直り、再び項羽と決戦して勝利する

 劉邦は広武山に兵糧を抱えて籠り、項羽との持久戦に出る。項羽は劉邦に一騎討ちを申し込んだが劉邦はそれを拒否する。しかしこの時に劉邦は敵の矢で負傷、持久戦が難しくなったことで使者を送って天下を二分することで講和を申し込み、項羽はこれを受け入れる。

 こうして項羽は撤退を始めるのだが、ここで張良が撤退する項羽を追撃するべきと進言する。ここで劉邦の選択である。講和を守って一旦引き揚げて体制を立て直すか、張良の進言に従って追撃をかけるかである。

 これに対してゲストの意見は二分。追撃をかけるべきというのは、韓信などの第3勢力が不穏であるということと、張良の言うようにまさに今こそ天命であるのでチャンスを掴めという考え。一方の講和を守るは、劉邦の支配地の方が国力があるので、血道にやっいたら勢力に差が付くというのと、磯田氏の意見は「張良も劉邦も戦は素人だから、対等の兵力で慌てて追撃戦をかけても戦慣れしている項羽に撃退される可能性があり、追撃をかけるなら韓信の協力が不可欠」というものであり、実はこれは結構説得力のある話である。

 で、劉邦は追撃をかける。また韓信らに恩賞として領地を与えることを約束して味方につける。そして紀元前202年、項羽軍との直接対決である垓下の戦いが起こる。韓信らの活躍でこの戦いは劉邦が勝利する。敗れて砦に籠もった項羽だが、包囲の軍が楚の歌を歌っている(四面楚歌)のを聴き、自身の本拠の楚も落ちたと考えて劉邦軍に突撃して自刃する。

 勝利した劉邦は漢帝国を打ち立てる。劉邦は勝利の理由として、自分は優れた部下達を使いこなすことが出来たからだと語っている。そしてこの漢帝国はその後の中国の基本となる。

 

 

 とのことなんだが、正直なところ史記をキチンと読んでいたり、司馬遼太郎の「項羽と劉邦」とかを読んでいる者にとっては、かなり大雑把な内容だなという印象。実際の劉邦の物語を解説するには最低でも2回は必要だろう。劉邦と項羽を語る上で外せないエピソードなんかも多く割愛していたという印象。

 またここで終われば劉邦万歳なんだが、実は劉邦に関してはその後が良くない。「狡兎死して走狗煮られる」という言葉があるが、韓信は結局は劉邦の疑心を招いて処刑され、彼以外にも劉邦に協力した者は次々と粛正されている。

 さらに劉邦の死後には劉邦の妻(劉邦が逆玉で結婚した有力者のお嬢)が権勢を振るうようになり、劉邦の寵姫を惨殺したりなどやりたい放題して漢王朝を滅茶苦茶にしている。と言うわけで劉邦の漢は建国までは良いけれど、その後がよろしくないという印象が非常に強い。さて家康はこういうところまでも学んでいるはずであり、当然江戸幕府がそのような混乱を起こさないようにすることも考えていただろうけど。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・劉邦は沛県の農民の出身だが、ろくに仕事もせずに酒と女に明け暮れていた。しかしなぜか人望はあり、その人脈から沛県の亭長となる。
・始皇帝の死により、秦国内で民衆の不満が爆発し、陳勝呉広の乱が広がる。劉邦も仲間と共に旗揚げをする。
・劉邦軍は楚の反乱軍に参加し、劉邦はそこで将軍の家系出身の項羽と出会う。
・反乱軍は咸陽攻略を目指すこととなり、最初に関中に達した者が関中王になるという触れが出る。項羽は鉅鹿の戦いで秦の大軍をうち破り、40万人の兵を穴埋めにする。
・一方の劉邦は武力を使わずに降伏を促す手を取る。寛容な劉邦に対して秦の城は次々と降伏し、そのまま咸陽に到着することに成功、秦王も劉邦に降る。劉邦は秦王の命を取らず、さらに法を三章にして簡略化するなどして秦の人々の人心を得る。
・しかし劉邦の咸陽入りを知った項羽が激怒、劉邦軍を攻めようとする。劉邦はその項羽の元を訪れた鴻門の会で項羽に低姿勢で謝罪、九死に一生を得る。
・咸陽に入った項羽は秦王とその一族を全員斬首、さらに秦の王宮に火を放つ暴挙に出る。そして楚に引き返すと中国全土を分割して将軍たちに分配する。
・劉邦には流刑地であった僻地漢中が与えられる。しかし将軍にした韓信から、今引き返して挙兵すると秦の人々は劉邦に付くと聞かされて挙兵することにする。
・折しも項羽の領土分配に不満を持つ者達の反乱が勃発、項羽はその対応に謀殺される。関中を攻略した劉邦は項羽の本拠である彭城を膨れあがった56万の大軍で攻略する。
・しかし項羽が精鋭3万を率いて戻ってき、油断しまくっていた劉邦軍は大敗、劉邦も命からがら逃走することになる。
・壊滅的被害を受けた劉邦軍だが、能吏である蕭何が兵力を立て直し、劉邦は再び項羽と広武山に籠もって持久戦をすることになる。
・やがて中国を二分する条件で講和が成立、兵糧が乏しくなった項羽軍は退却に入る。その時に軍師の張良が今こそ項羽に追撃をかけるべきと進言する。
・劉邦は張良の策に従って項羽を追撃、さらに韓信らにも領土を与えることを約束して仲間に加え、垓下の戦いの戦いで項羽軍を撃破、最後まで奮戦した項羽も最後は自刃して果てる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・戦自体は項羽の方が圧倒的に強いが、とにかく項羽軍は戦い方が苛烈すぎるので、連戦するほど精鋭から死んでいって、最終的には兵力をかなり損耗することになるんですよね。だから戦いが後半になってくるほど勝てなくなってくる。結局は最終的にはそれが結束が緩いが故にすぐに数が膨れあがる劉邦軍に負けたということになります。

・中国関係の記事を書いていたらいつもなんですが、中国史の人名とか地名は、かなり馴染みがあるものでも、通常のPC辞書だとまず出てこないんですよね。結局は一文字ずつ拾う必要があるから手間がかかる。しかも文字自体がない場合もあるから大変。

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