教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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10/4 BSプレミアム 英雄たちの選択「剣豪・宮本武蔵 極める!フリーランスの道」

新資料に基づいた武蔵の本当の生涯

 剣豪宮本武蔵、今まで数々の伝説に彩られ、その実像が今ひとつ見えてこなかった宮本武蔵であるが、近年になって数々の新資料が発見されて宮本武蔵の実像が分かってきたという。宮本武蔵は最後までどこかの大名に仕官していないのだが、そのようなフリーランスとしての武蔵の生涯に注目するという。

剣豪・宮本武蔵

 2022年に熊本大学で宮本武蔵に関する新資料が見つかったという。それによると武蔵は熊本の藩主である細川光尚と非常に親しい関係にあったことが分かるという。武蔵はフリーランスの立場でありながら、どうやってそのような立場になったのか。

 

 

実は関ヶ原にはいなかった武蔵

 戦国末期には武蔵のような牢人が多く溢れていた。しかし武蔵が少年の頃に豊臣秀吉が天下を治めたことによって牢人たちは仕事の機会を失った。また秀吉は牢人たちに農民になることを迫った。しかし秀吉の死後に関ヶ原の合戦が勃発、牢人たちにとっては千載一遇のチャンスだった。ここで通説では武蔵は宇喜多の軍勢に参加して大敗したとされていた。

 しかし実は武蔵はこの時、九州の地で養父と共に黒田如水の軍勢で戦ったという記録が見つかったのだという。また武蔵の父の新免無二が黒田家に仕えていたという記録も存在するという。つまりはここで武蔵は敗北した西軍ではなく、勝った東軍側に属していたということである。それにも関わらず武蔵は仕官せずに牢人として全国を放浪する。

 この時期に武蔵はいわゆる武者修行をしており、吉岡一門の100人を退けたり、槍の使い手や鎖鎌の使い手に勝利したり、さらには巌流島での佐々木小次郎との決闘などを行っている。武蔵は60回以上の勝負ですべて勝ちを収めたとしている。当然のように武蔵の名は上がり、召し抱えたいという申し出も来るのだが、武蔵はそれらを断って武者修行を続けたという。

 

 

大坂の陣では東軍に参戦して勝利、しかしフリーランスを続ける

 そして武蔵33才の1614年、大坂の陣が勃発する。この時に一発逆転をかけて豊臣側に荷担する多くの牢人たちがおり、通説では武蔵もこれに応じて参加したとされていたが、近年に武蔵は水野家の客分として東軍側に荷担していたことが分かったという。武蔵は水野の若君を守りながら武功を上げさせるという重要な役割を託されており、実際に活躍したという。しかし武蔵はその後に水野家に仕えることもなく牢人を続けている。

 その後に武蔵は明石城の築城の際に、城下町の町割を行ったという興味深い記録が残っている。武蔵は街道を抱える形の城下町で発展を目論んだ町割をしており、そこには全国を放浪してあちこちの町を見てきた経験が生きているという。また藩主のための庭園の設計まで行ったと言われており、武蔵が単なる武辺者ではなくもっと多彩な能力を有していたことを伝えている。

 

 

島原の乱で老いを痛感するが、それでも貫いたフリーランス人生

 1638年島原の乱が勃発すると、57才の武蔵も小倉の小笠原家の客分として参戦する。ちなみにかつて武蔵が明石の町割をした時の城主が小笠原氏だったという。小笠原氏は武蔵に仕官を乞うが武蔵はそれを拒否、代わりに甥の伊織を推挙する。伊織は小笠原家に使えると若干20才で家老に大出世する。そして伊織と共に参戦した武蔵だが、一揆軍の投石で足を傷めて立ち上がれないほどの怪我を負ってしまう。武蔵は自らの老いを感じたという。一方の伊織はこの時の功で筆頭家老にまで出世する。

 ここで先行きを考えたときの武蔵の選択である。小笠原家に留まり悠々自適の老後を送るか、あえて新天地を求めるかである。ゲストの意見は新天地を求める。私の場合も私なら迷わず悠々自適を選ぶが、武蔵なら新天地を求めるだろうと考える。実際にこの頃に武蔵が細川家筆頭家老の長岡興長に宛てた書状が見つかっており、武蔵が細川家と深い結びつきがあったことが分かるという。そして武蔵は実際に新天地を求めて小笠原家を離れている。

 小笠原家を離れた武蔵は1640年に熊本の細川家の客分となっている。そこで厚遇された武蔵が6年後に書き始めたのが五輪の書であるという。熊本で発見された資料によると、熊本での武蔵が細川忠利の元を訪れていた蒼々たる文化人達と交流していたことが分かったという。武蔵の五輪の書は単なる兵法の書でなく、仏法・儒学・道教、さらに様々な武家の歴史などに総合的に通じることで、剣の道が本当の悟りに初めて到達出来ると記しているという。これは武蔵の晩年の交流が反映していると考えられるという。そして五輪の書を書き上げた一週間後に武蔵は64才でこの世を去る。その葬儀は細川家当主が盛大に執り行ったという。

 

 

 以上、フリーランスとしての自由な生き方を貫いた剣豪・宮本武蔵の生涯である。どうも今までの武蔵の生涯と言えば、仕官を目指しながらも仕えた大名が負ける側になるなどの不運や、天下泰平の世の中になって剣の腕を活かせるチャンスを失っていった不運の剣豪という解釈が多かったのであるが、今回見えた武蔵の実像からは、あえて仕官せずにプライドを持ってフリーランスの道を貫いた武蔵の姿が見える。実際に仕官を目指しながらそれが叶わなかったと考えるには、武蔵には結構オファーも多かったことから、従来の解釈には私は疑問を感じていたのであるが、今回の内容を見て納得がいった。恐らく今回の解釈の方が正解であろう。

 そうなると五輪の書についても、従来は最強の境地まで鍛えた剣の腕を奮う機会ももうない中で、一抹の哀しさと共に自身の生涯を振り返ってその境地を後世に伝えようとした書という解釈ではなく、フリーランスとしてプライドを持って剣に生きた武蔵が、自身のその集大成の境地を満を持して後世に残した書ということになり若干解釈が変わってくる。この辺りはなかなかに興味深いことだ。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・近年、宮本武蔵に関する様々な資料が発見されたことから、従来の説とは異なる武蔵の真の姿が見えてきたという。
・従来説では武蔵は関ヶ原の合戦に宇喜多勢として加わったが大敗したとされてきたが、新資料でこの時の武蔵は父と共に黒田如水の軍勢に加わっており、関ヶ原では勝利した側であることが分かった。
・しかし武蔵はこの後、牢人として全国をさすらい、各地で使い手と戦って剣豪としての名を上げていく。
・大坂の陣では従来説では武蔵は豊臣方として参戦と言われていたが、実は東軍の水野家の客分として若君を護衛する大役を果たしていたことも分かったという。
・合戦後、武蔵は水野家に仕官せずに各地を放浪する。その途中で明石で全国の都市を見てきた経験を生かして町割を担当したりなど、多彩な才能も示している。
・なおこの時の明石の城主は小笠原氏で、武蔵は仕官を乞われたが断り、代わりに甥の伊織を推挙している。
・島原の合戦時には、家老にまで出世した伊織とと共に小笠原氏の元で参戦する。しかしここで一揆勢の投石で足をやられてしまい、自らの老いを感じることになる。
・伊織はこの時の功績で筆頭家老に出世。武蔵も小笠原氏の元で悠々自適の老後を送る道もあったのだが、武蔵はあえて新天地を求めて旅立ち、2年後に熊本の細川氏の客分となる。
・武蔵が五輪の書を書くのはその6年後だが、晩年の武蔵は細川氏の元で厚遇され、また細川氏の元を訪れた蒼々たる文化人と交流することで教養なども深めたと考えられ、そのことは五輪の書にも反映されているという。
・五輪の書を書き終えた一週間後、武蔵は64才でこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・うーん、堂々たるフリーランスの道でした。なかなかここまで全う出来るものではないが、それはやはり傑出した実力があり、その実力が天下に知れていたということが大きいだろう。ここまで名声が高ければ、あえてどこかのお抱えで窮屈な立場になるより、フリーランスで自由に活動した方が良いと言うことのようで。もっとも今の日本だったら、武蔵もインボイスでつぶされる口だが。

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