教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

11/8 BSプレミアム 英雄たちの選択「小早川秀秋の関ヶ原~裏切り者か?心優しき若き武将か?~」

小早川秀秋は裏切り者でない?

 関ヶ原の合戦での東軍勝利の最大の功労者であり、裏切り者との汚名も残した小早川秀秋。しかし彼は実は裏切ったわけではなかった(つまりは最初から東軍に荷担していた)という話が今回の内容。

いかにも優柔不断で気弱そうな小早川秀秋像

 小早川秀秋の肖像画として有名なものがあるが、これは秀秋が若くして亡くなった後、北政所が記憶に基づいて描かせたものだとされている。そのせいかやけに幼いイメージの肖像画であり、何となく優柔不断な若者のイメージが強まってしまう。というわけで番組では光栄にでも描かせたのかというやけに精悍な肖像が登場する。どうやら調べたところによると、大河ドラマの嘉島陸氏の秀秋をイメージした肖像画らしいことが判明。やっぱり今回も大河の宣伝絡みである。

toyokeizai.net

番組登場の肖像は明らかにこの嘉島陸氏のイメージで描かれていた

 

 

秀吉の養子となって後継者と見なされるが、秀頼誕生で小早川家へ

 秀秋が誕生した年はちょうど本能寺の変があった年である。そして秀吉が台頭する中で秀秋は秀吉の養子となった。幼い頃から学問をしており貧しい人達を助けたいという心優しき人物に成長したという。毛利輝元が臣下の礼を取るために上洛した際には、途中で席を外した秀吉の代わりに上段に7才の秀秋が座ったという。この時点で周囲も認める秀吉の後継者だったという。

 しかし1593年に秀吉の実子(とされる)秀頼が誕生したことで、秀秋は後継者から外されて13才で小早川隆景の養子にされる。なお秀吉は毛利本家の養子にするつもりだったという説もあるが、当時の状況からそれはないだろうとの話。そして筑前33万石の大名となった秀秋は、輝元の養女を正妻に迎えて正式に毛利一門となる。

 慶長の役の朝鮮出兵の際には16才の秀秋が初陣にして総大将に命じられる。秀秋に対して秀吉は細かい注意事項などを文書で伝えており、秀吉は秀頼を支える存在として秀秋に期待していたのではという。蔚山城が包囲されたときには秀秋は周囲の反対を抑えて自ら出陣して敵陣に飛び込んでいって初陣を飾ったという。しかし帰国した秀秋は越前29万石への減封を命じられる。そして秀吉の死、これで秀秋の国替えも白紙となる。

 

 

関ヶ原に巻き込まれるが、家康と連絡をとって味方することを確約

 その後に勃発したのが関ヶ原の合戦である。上杉討伐のための家康による招集に秀秋も応じて大坂に向かったが、あくまで羽柴一門として秀頼の守護のために大坂に留まっている。そこで発生したのが石田三成によるクーデターである。西軍総大将は毛利輝元となり秀秋も西軍で参戦することになる。しかしこの頃から秀秋は東軍武将と文書のやりとりをしていた。この文書には東軍に味方するのは北政所の意志であると記されており、これは秀秋の心を大きく動かしたのではという。

 家康が岐阜城に到着したときには、家康は黒田長政から秀秋が東軍に味方するという確約を受け取っていたという。関ヶ原の戦い前日の9月14日、家康は大垣城の北方の赤坂に出現、しばらく消息をくらましていた秀秋は松尾山に陣取る。松尾山城には秀秋が多くの兵を駐屯させられるように削平されていたという。西軍は挟み撃ちにされることになり、そのために配置を大きく変える必要に迫られ、大垣城の軍勢が大谷義継の持ち場に駆けつける。東軍が戦場にたどり着くには毛利が陣取る南宮山の麓を通る必要があったが、毛利は動かず東軍はそこを素通りする。実は家康と輝元の間で和議の申し入れがされていたのだという。こうして東西10万の軍勢が関ヶ原で相対することになる。

 さてここで秀秋の決断であるが、東軍に味方するか西軍に味方するかである。これはあまりに現実の選択がハッキリしているので、番組ゲストは「その方が面白い」と西軍を選んだ千田氏以外は全員が東軍である。磯田氏までが「ここまで来て西軍にはつけない」である。で、実際は有名な歴史通りに秀秋は東軍に味方し、このことで西軍は側面を突かれて総崩れになって東軍の圧勝となる。秀秋は恩賞として備前美作40万石を与えられて城下の整備に努めるが、1602年に21才で急死する。実子のなかった小早川家は断絶して所領は家康に没収されることになる。なおあまりの急死に当時から暗殺説もあるという(私もあり得る話だと思う)。そして江戸時代となったことで秀秋は家康を持ち上げる意味もあって裏切り者ということにされてしまうのである。

 

 

 以上、小早川秀秋は思いっきり日和った挙げ句に裏切ったのでなく、そもそも最初から東軍でしたという話。ただ実際にいざ本番になると秀秋が日和ったのは現実だと思う。だからやっぱり「決然と東軍についた」というのは少し違う気がする。なおこの説によると大垣城から駆けつけた西軍は秀秋を食い止めるために麓に陣取ったということになるから、むしろ南宮山の毛利が東軍を食い止めずにスルーさせたということの方が計算違いと言うことになる。毛利軍がここで東軍を食い止めていれば、その間に松尾山の秀秋軍を叩き、その後に反転して家康の軍を叩くというストーリーを描いていたということになるが・・・。

 なおこの時に秀秋が西軍についていたらというシミュレーションを磯田氏がしていたが、秀秋が西軍につくことを決意したとしたら、その時点で毛利に対して「我は西軍に参戦する」と伝えるだろうから、毛利本軍も東軍を攻撃することになるだろうという。そうなると情勢が危ういとみた家康は大撤退戦を敢行して、大垣城から木曽川の防衛戦まで引かざるを得なくなるだろうという。しかしその時に大津城を落とした立花宗茂以下の九州最強軍団が西軍に参戦するので家康がここで守り切れるかは微妙だという読み。まあしばらく持ちこたえたら遅参していた秀忠軍が到着するだろうから、そうなると木曽川を挟んで睨み合いになるかも。まあ戦国マニアには面白い展開だ。私も立花宗茂vs本多忠勝の戦いなんて見てみたい気はする。またそうして両軍が睨み合いをしている背後で策動する真田昌幸とか考え出したら正直ワクワクが止まらんのだが。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・小早川秀秋は裏切り者ではなく、最初から東軍として動いていたというのが今回の内容。
・秀秋は秀吉の養子となって後継者と目されていたが、秀頼が生まれたことで小早川隆景の元に養子として送り出される。
・ただそれでも秀吉は秀秋を捨てたわけでなく、秀頼の補佐と考えいたらしく、慶長の役では総大将を努めて活躍をしている。
・しかし秀吉の死後、関ヶ原の合戦に巻き込まれる。家康の上杉討伐に応じて大坂城に入った秀秋は、毛利輝元が西軍の総大将となったことで必然的に西軍として参戦することになる。しかし実はこの頃から東軍の武将とやりとりをしており、家康に味方することを約束している。
・そして関ヶ原の合戦の前日、秀秋は突然に大谷義継の側面を突く位置の松尾山に陣取る。これに対して西軍は配置を大きく変更して関ヶ原に急行することになる。
・東軍も関ヶ原に向かうが、側面から攻撃するはずの毛利軍は動かず、結局は関ヶ原で10万の軍勢が睨み合うことになる。
・そして戦いの最中、秀秋は松尾山を降って西軍を急襲、これで東軍の勝利が確定する。
・恩賞として備前美作40万石を得た秀秋だが、21才で急死し、実子のいなかった小早川家は断絶することになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・秀秋がはっきりと東軍についていたかどうかという話ですが、私の読みでは8割方は東軍に決めていたが、最後の最後まで日和ったというのが現実だと思います。というわけでやっぱり私の中の小早川秀秋は優柔不断な若者というイメージは変わりませんね。なお秀秋の若死にはアル中のせいと言う話も以前に「偉人たちの健康診断」でありましたが、暗殺の線もかなりありそうな気はしますね。家康にしたら彼が頑張っていたら秀頼を倒すのが大変ですから。関白秀次や小早川秀秋のような豊臣を支えるべき人達がいなくなったことが、豊臣家滅亡の原因でしょう。

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