教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

11/23 BSプレミアム ザ・プロファイラー「江戸の後始末は俺に任せろ 勝海舟」

勝海舟の生涯

 今回は西郷隆盛との間で江戸城明け渡し交渉をまとめたことで、江戸の町を戦火から守った勝海舟が主人公。ちなみに幕末の重要人物として何かと歴史番組にも登場が多い人物だが、意外と主人公として扱うことは少ないみたいである。

江戸城無血開城についてはこれ

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咸臨丸の渡米についてはBれ

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貧乏旗本の息子が蘭学を志す

 勝海舟こと麟太郎は1823年に江戸に生まれる。父親は無役の旗本で、禄高はわずか40俵と非常に貧困であったという。18歳で世界地図に驚嘆した麟太郎は、世界を見てみたいと考えて蘭学者の門を叩く。そこでオランダ語を学んだが、そのための辞書は60両(現在の価値で600万円以上)と非常に効果なので麟太郎には手が出ないものだった。23歳で結婚するが非常に貧乏な生活だったという。そこで麟太郎は辞書を持つ人から10両で借り、全8冊を1年かけて筆写、その筆写本を2部作って、1部を売って借り賃を作ったという。

勝海舟

 その頃の麟太郎は軍学者の佐久間象山と出会い、海軍を強化しないと国を守れないと知らされる。そして象山から海舟書屋を譲り受けたのだが、この海舟という言葉を気に入って号として使用するようになる。

 ペリー来訪時には31歳だった海舟は、幕府が国防に関する意見書を身分に関係なく募集した時に、精神論的な攘夷論ではなく、具体的に軍艦を建造した上で西洋流の兵制を導入して海岸に台場を築造するなどの策を提出する。それが老中阿部正弘らの目にとまり、幕府の翻訳を担当する役職に抜擢される(流石に切れ者の阿部正弘は人物を見る目もあった模様)。さらに彼を長崎海軍伝習所に入所させて海軍のエキスパートへの育成を行う。海舟はオランダ人と生徒を仲介する形で頭角を現す。

 

 

咸臨丸で渡米し、アメリカの民主主義に触れる

 そして1860年、38才の時に咸臨丸で艦長としてアメリカにへ渡る。そして37日の航海でアメリカに渡り、アメリカの文明に感嘆する。特に市議会を傍聴して投票ですべてを決める制度に感心する。なお帰国して老中に謁見した時、「何か目についたことを詳しく申せ」と言われて「アメリカでは政府でも民間でも、およそ上に立つものは皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは全く我が国と反対のように思います。」と言い切って老中を怒らせたという。ちなみにこの点は未だに日本では全く反対のままである。

 40才になると幕府海軍のリーダーとして軍艦奉行並に抜擢される。その頃の海舟は福井藩の開明派の思想家・横井小楠に刺激を受ける。彼の考えは興国で海軍力を強化するために幕府と諸藩が連合して臨むというものであった。海舟はその影響を受けて幕府と雄藩の連合国家構想を抱く。そして人材育成に力を入れるようになり、神戸海軍操練所を開設する。そこに西郷隆盛が訪れて二人は会談をすることになる。ここで海舟は連合国家構想を西郷に語ったという。しかし幕府は長州藩と敵対、長州征伐に反対した海舟は役職を罷免される。そんな中、慶喜が将軍になったことで軍艦奉行に復活、長州との戦の後始末などで海舟は頼りにされるようになる。そして1年後、慶喜は大政奉還を実行、これか海舟の考えとも合致したものだった。海舟は国内での争いを避けるように慶喜に言っていた。

 

 

江戸城明け渡しのギリギリの交渉を行う

 しかし薩長は幕府を滅ぼそうと動く、そして幕府軍と新政府軍が対立した挙げ句に、幕府軍は朝敵にされてしまう。慶喜は江戸城に脱出するが、その慶喜に対して海舟は「どうなさるおつもりか!」と怒鳴ったという。慶喜は上野寛永寺に謹慎し、海舟は陸軍総裁に就任して薩長との交渉の責任者になる。まさに火中の栗を拾うことになった。海舟は西郷隆盛と会って降伏の条件の交渉をすることする。しかし海舟が人質にされることを恐れた慶喜はそれに反対し、山岡鉄舟が使者に送られることになる。海舟は西郷への紹介状を渡して鉄舟を送り出す。

 西郷の条件は慶喜を備前岡山藩に預け、江戸城は明け渡し、軍鑑や武器は没収の上で旧幕臣は移住するというものだった。しかしこれでは慶喜が処刑される危険が高かった。鉄舟は慶喜の件だけは受け入れられないとして海舟の元に持ち帰る。そして海舟が西郷と直談判することになる。海舟は慶喜の命が助かり、家臣を養うに足る収入が残されれば協定に応じると主張する。日本人同士が戦うことの愚は西郷も理解していた(ドサクサ紛れに外国が介入して植民地にされる可能性がある)。結局西郷は慶喜の水戸藩預けを認めて江戸城の開城が実行される。

 

 

明治になると旧幕臣の処遇と慶喜の名誉回復に奔走

 江戸城は開城されたが、徳川の所領は700万石から駿府の70万石に削減される。これは3万人の幕臣の多くが路頭に迷うことを意味した。これは社会不安につながると海舟は訴えたが決定は覆らず、海舟は引っ越しを差配することになり、結局は13700人の旧幕臣が無禄でもと同行する。彼らは困窮し、海舟は息子の留学のために用意していた資金を切り崩したが、それもすぐに底をついた。そこで人材不足だった新政府に実務派の旧幕臣を官僚として送り込む。彼らは全国に散って活躍を始める。海舟も新政府入りを打診されるが、幕臣の反発を警戒して辞退していた。しかし廃藩置県で藩主が家臣を養うという制度が崩壊したことで新政府入りを決意する。そして海軍のトップの海軍卿になる。海舟の構想は西洋に対抗するために、日本・清・朝鮮の三国が団結してアジアの大勢力になるというものだった。しかし征韓論が明治政府に湧き起こったことで西郷が政府を去り、海舟の構想も大久保利通に受け入れられずに政府を去る。そして西南戦争が発生、旧幕臣の不満分子もそれに呼応しようとしたのを海舟は必死で抑えた。結局西郷は敗北して亡くなる。

 海舟は旧幕臣への援助を続けていたので家計は困窮していた。そんな中で海舟は記録を残す作業を行っていた。また新聞などにご意見番として鋭い批判文なども書いていたという。74才の時に日清戦争勝利に沸く国民に「日本人も勝ったとあまり威張っていると後で大変な目に遭う」と語っていたという。その海舟が心を砕いていたのは慶喜の名誉回復。1898年、76才の海舟は宮中に働きかけ、慶喜と明治天皇の会見を実現させる。徳川の名誉が回復した瞬間だった。その10ヶ月後に海舟は亡くなる。最後の言葉は「これでおしまい」だったという。

 

 

 以上、最後まで幕臣としての立場を通した勝海舟の生涯。ちなみにいかにも江戸っ子の「べらんめぇ」口調で新政府にも乗り込んで堂々と文句を言うから、結構鬱陶しがられていたという話も残っている。新政府としても無碍に無視することも出来なかった存在だったのだろう。

 それにしても新政府の人材不足はかなり深刻で、政治が立ちゆかなくなっていたという。そういう点では慶喜の「たとえ大政奉還しても国の運営を徳川抜きでするのは不可能だろう」という読みは正しかったのだが、彼が聡明であるが故に読めなかったのは、薩長がそんな当たり前のことを無視して感情的に幕府憎しで突っ走るということだったろう。愚者が賢者の考えを読めないのは当然として、賢者も愚者の行動はあまりに愚かであるが故に読めないというところはある。結局のところ新政府が樹立されても、長州藩士なんて大半が平時には役に立たない天誅テロリストばかりで、後は利権まみれの奴ばかり(その伝統は現在までも続いている)だったから、新政府が回らないのは当然である。結局そこに海舟が官僚を斡旋することになったようである。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・勝海舟(麟太郎)の父は無役の旗本であり、かなり困窮した少年時代を送った。
・18才の時に地球儀を見たことで世界に興味を持ち、蘭学を学ぶことになる。
・海舟の号は佐久間象山からもらった海舟書屋に由来している。
・黒船来航時に海舟は具体的で有効な献策をしたことで抜擢され、幕府の海軍伝習所に送られることになる。
・そして咸臨丸の艦長として渡米、アメリカの議会を傍聴して民主主義に感服する。
・40才で軍艦奉行並に抜擢され、幕府海軍のトップとなる。この頃には幕府と雄藩の連合国家構想を抱くようになる。
・慶喜の将軍就任で海舟は慶喜と接近、慶喜の大政奉還は海舟の考えにも沿ったものだった。
・しかし幕府と長州が戦闘になり、慶喜は江戸に逃げ帰ってくる。薩長との交渉の責任者となった海舟は西郷と直談判することを考え、山岡鉄舟を使者として送る。
・鉄舟は西郷に江戸城明け渡しの条件を伝えて帰還、ついに西郷と海舟が直接に対面することになる。そこで慶喜を助命することを条件に江戸城明け渡しが成立する。
・しかし徳川領は700万石から70万石に減らされ、多くの幕臣が路頭に迷うことになる。海舟は彼らを経済的に支援しつつ、人材不足の新政府に旧幕臣を官僚として送り込む斡旋を行う。
・廃藩置県後、海舟も新政府入りをして海軍卿となるが、清・朝鮮とアジア連合を作る構想が大久保利通に受け入れられず新政府を去ることになる。
・晩年の海舟はこれまでの記録を残す作業を行いつつ、新聞などで鋭い批判文などを執筆していた。そして最後に慶喜の明治天皇との会見による名誉回復をなしてからこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・べらんめぇの良くも悪くも江戸っ子気質だったようです、この人は。結構短気で喧嘩っ早かったところもあった模様。その一方で深謀遠慮に基づいた根回しも出来る人だったようです。まあそういう意味では確かに仕事を出来る人ではあったんでしょう。