江戸の博物ブーム
18世紀、ヨーロッパではリンネが植物分類学を確立するなど博物学の時代を迎えていた。一方、その頃の日本では江戸在府の大名たちが植物図譜を製作したりなど、博物大名と呼ばれる博物マニアの大名たちが登場していた。
高松藩五代藩主の松平頼恭が作らせた博物図譜である衆禽画譜が今日にも残っている。これは様々な野生の鳥を精密に描かせた図譜である。これが作られたのは1760年頃で、子供の頃から標本作りが好きで、城の堀に海水を引き込んで海の魚を間近で観察することまで行ったという。その結果、海の魚類を描いた衆鱗図という図譜も製作させているが、その緻密さは驚くばかりである。絵は切り抜いて和紙に貼り付けて立体感を出すということまで行っている徹底した凝り方である。
吉宗の政策が博物大名を生み、それは身分の枠を超えて繋がっていった
大名がここまで徹底して博物にこだわるようになったのは、1735年に将軍吉宗が全国に発した天然資源などの産物調査がキッカケだったという。吉宗は全国の知られざる有用な産物などを発掘することで、逼迫する財政を改善することを考えており、標本を送ると共にそれが出来ないものは詳しい絵図を提出するように定めた。その結果、各地で博物学に目覚める大名が出たという。熊本藩六代藩主の細川重賢は参勤交代の道すがら、動植物を採集を行って押し葉の図鑑まで作成し、虫籠に虫を入れては成長の観察などまで行って記録を残している。
さらに博物大名たちは個人で活動するだけでなく、互いに図譜を交換して模写し合ったりしていたという。重賢も松平頼恭から図譜を借りて写しを残している。こうして博物大名のネットワークが出来ていった。
当時の資料として愛物産家番付なるものが残っている。博物愛好家の実力を相撲の番付に見立てたものである。行司は本草学者の小野蘭山で、東の大関は富山藩藩主の前だ利保、西の大関には福岡藩藩主の黒田斉清があげられ、関脇以下には江戸の商人なども挙げられている。旗本などの16人の博物好きによる赭鞭会が結成され、彼らは様々な物品を調査して、それらの薬効などを研究していたという。調査の度に白熱した議論が繰り広げられていたという。ここから様々な好き者の研究者が現れたという。日本の各地でこのような博物好きが現れていった。身分制社会の中でそういう出自の枠を超えたサロンが結成されていったという。
博物好きは幕閣の重鎮までにも
江戸時代の研究者にとっての第一級史料である、寛政重修諸家譜という大名から旗本までの2132武家の家系図集があるが、これを記したのが若年寄の堀田正敦。幕閣の重鎮だった彼は幕政改革に取り組む一方で、博物大名の顔を持っていた。堀田禽譜という鳥の図鑑が今も残されており、無類の鳥好きだった正敦がまとめたものである。
しかし正敦が若年寄を務めた頃には、蝦夷地にロシアが訪れて不穏な空気が漂っていた。蝦夷地を担当したのが正敦であるが彼にとって蝦夷地は警戒心と共に好奇心を掻き立てる対象でもあった。彼はロシアに漂流してから帰国した大黒屋光太夫に対し、雁が年中いたかとか鳥の数まで訪ね、ロシアに雁の繁殖地があることを確認しているという。
しかし1806年、通商を断られたロシアによる蝦夷地攻撃という事件が起こる。正敦は自ら蝦夷地に渡り現地の視察を行っている。この時に起こる正敦の選択であるが、蝦夷地を調査したときの鳥の情報を図鑑に載せるか、ロシアを刺激することを避けて秘匿するかである・・・とのことだが、正敦は一体何を調査に行ったんだ?
これに対してゲストの意見は割れるが、載せるというのが多数であった。で、正敦であるが情報を載せたという。剥製などを仕入れて当時は珍しかったペンギンなども記しており、また松前藩主から借りた絵を模写したりなどもした。さらに補足説明の漢文禽譜には詳細な情報を記してあるという。正敦は伊能忠敬など多くの人物の協力を得て、北方の実情を詳しく知ろうとしていたという。中には高橋景保の名もあり、エトピリカの情報のところにその名を記してある。景保はシーボルトに日本地図を渡したとことで処罰されたのだが、正敦はあえてその名を漢文禽譜に残してあり、これは正敦の景保への想いが込められているという。
< とのことなんだが、今回は博物大名という変わった視点から時代に迫っているのが、この番組らしい珍しい内容。それはそうとして、堀田正敦の選択って、結局は職務にかこつけて趣味の方を優先していた人物・・・としか見えないのだが。なお北方の情報を記すことはロシアへの情報漏洩や刺激をすることになるという話があったが、正直なところこれが私には今ひとつピンとこない。むしろ「我々は蝦夷地のことをここまで調べているんだ」という強烈な領土アピールになるのではという気もするのであるが。ロシアのような相手には領土主張は明確にしておかないとズルズルと侵攻してくる可能性があるが、むしろこれは重要な気が・・・。
忙しい方のための今回の要点
・18世紀の日本では、博物大名と言われる個人的に博物研究に打ち込み、魚や鳥などの詳細な図譜を作らせる大名が増えていた。
・事の起こりは吉宗が全国の大名に対してその地の産物を報告するように命じたことから始まる。吉宗は例えば薬草などに利用可能な植物などを見つけることで、新たな財源の確保を目指していたが、それが大名たちを博物に目覚めさせることになる。
・やがて博物大名たちはネットワークを形成すると共に、裕福な商人たちなども含めて博物研究に勤しむ者が増えた。そして旗本などの16人の博物好きが赭鞭会を結成、博物研究に力を入れるようになる。
・これは地方大名だけでなく、幕閣にも及び、若年寄の堀田正敦は幕政改革の傍らで鳥類の研究に勤しむ博物大名であり、特に蝦夷地などの北方の鳥類に強い興味を持っていた。
・しかし当時の蝦夷地はロシアとの係争地になりつつあった。正敦は自ら蝦夷地に出向いて現地調査を行う。
・その地の鳥類の情報を記すことはロシアを刺激する恐れもあったが、結局正敦は自らの禽譜に北方の鳥の情報を記すことにする。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・堀田正敦はどうやら仕事にも有能だが、趣味の方の情熱もかなりの人物だったようである。公私混同の批判を避ける必要があったという話だが、私から見たら多分に公私混同しているように感じられるのだが・・・。
次回の英雄たちの選択
前回の英雄たちの選択