幕末最強の庄内藩軍
幕末、新政府軍の攻撃によって奥羽越列藩同盟が次々と崩れていく中で、孤軍奮闘で連戦連勝の強さを示したのが庄内藩だという。決して大藩ではない庄内藩がなぜそれだけ善戦出来たのか、そしてその後の運命は。一般には決して知名度が高くない庄内藩について紹介する・・・ってことなんですが、実は庄内藩にはかなり以前に「歴史探偵」・・・ではなくて、もっと硬派のしっかりした歴史番組である「歴史秘話ヒストリア」で紹介されるんですよね。
幕府を支える意志が強かった庄内藩
庄内藩はそもそも徳川四天王の酒井忠次の子孫が治めていた藩であり、東北の押さえとして幕府支持の意志は強かったという。また藩校を設立して教育に対して力を入れており、上下関係の強い朱子学ではなく徂徠学という自学自習の意志が強い学問を取り入れていたという。また心身の鍛練として磯釣りが奨励されていたという。
また酒井家は領民を慈しむ政治を実施、飢饉の際には藩の蔵を開放して米を支給、領内から餓死者を出さなかったという。だから地域の人々の酒井家に対する支持も高く、1840年に財政危機に陥っていた川越藩主の松平氏を救済するため、川越藩、長岡藩、庄内藩の3つの藩主を入れ替える三方領地替えを幕府が命じた際には、領民たちが納得せずに3万人の領民が集まって国替阻止を訴えたという。訴状を持って江戸に行って老中に国替えの撤回を願い出た領民までいたという。この動きは大きな反響を呼び、幕府は翌年に三方領地替えの中止を決定する(封建時代の幕府でさえ、強い世論を無視することは出来なかったということである)。
しかしその10年後、ペリーの来訪などで世の中は混乱し、尊王攘夷テロなども頻発、幕府は庄内藩に江戸市中取締を命じる。この時に部隊長である番頭に任じられたのが藩主一族でもある酒井玄蕃(22才)である。玄蕃は新徴組を指揮して浪士達を厳しく取り締まる。しかし新政府樹立の動きは止まらず、大政奉還となるが、西郷は浪士達に命じて江戸城下で放火をさせるなど幕府を挑発し、武力討伐の方向に誘導する。薩摩藩邸の焼き討ちは庄内藩が主導で行われて、これで一気に戊辰戦争へと繋がる。庄内藩は朝敵とされて新政府軍の討伐の対象とされる。しかしこの戦いで鬼玄蕃こと酒井玄蕃が率いる庄内藩は連戦連勝したという。
連戦連勝した庄内藩軍
庄内藩の軍のシンボルは二番大隊戦旗の破軍星旗である。北斗七星の破軍星を上に掲げて敵を撃破することを謳っている。これを率いたのが酒井玄蕃で、彼は27才で庄内軍の指揮官となる。江戸に逃げ帰った慶喜に対し、「徳川の天下もこれまでか」と書に記し、慶喜のことを馬鹿将軍と記述しているという。
東北の31の藩が奥羽越列藩同盟を結成するが、秋田藩や新庄藩は早々と離反して薩摩郡と共に庄内藩領に侵攻してくる。玄蕃はこれを阻むべく1868年7月11日に舟形に進行するとここで防衛戦を行う。新政府軍500に対し、玄蕃率いる庄内藩二番大隊は400だった。両軍ともミニエー銃を装備しており、武装は対等で川を挟んだ撃ち合いとなった。玄蕃は敵より先に発砲するなと命じた(こちらの陣形を知られないため)。敵は降伏した直後の新庄藩を先頭に立てて攻撃をしてくる。これで敵の配置を理解した玄蕃は、別働隊を上流に迂回させて奇襲をかける。これで敵軍は大混乱、そこに一斉に渡河をしての総攻撃で敵軍は完全に崩れて多くの兵を討ち取る圧勝となる。
当時の庄内軍はイギリス式の訓練をされた統一行動の取れる軍隊であり、さらに大地主である本間家の経済援助で武装も充実していたという。中には元込式の連射可能なスペンサー銃も含まれていたという。さらに庄内の農民達も領地防衛のために民兵として志願し、その数は庄内軍の4割にも達したという。
翌日、庄内軍は新庄藩の本拠である新庄城に進軍、激戦の末に新庄城を陥落させる。玄蕃は降伏した敵兵の命を助け、新庄領民の租税を半減、庄内兵には「人々を困らせるようなことを避け、領内の民と同じように接しろ」と命じたという。その後、秋田藩に侵攻すると湯沢、横手、大曲などの要衝を陥落させ、久保田城に迫る。しかし他の東北諸藩は苦戦に陥っており、会津藩も新政府軍の侵攻で籠城戦に陥っていた。米沢藩、仙台藩なども降伏し、東北で善戦していたのは玄蕃率いる庄内藩のみであった。
会津藩の降伏でついに東北で孤立することに
1868年9月、庄内軍は刈和野で増援を受けた新政府軍と一進一退の攻防を繰り広げていた。玄蕃は病となって立ち上がれない状態になったが、それでも兵の担ぐ輿に乗って進軍したという。そして9月16日に決死の突撃で戦いに勝利する。だが9月22日に会津藩が降伏、未だ戦いを続けるのは東北では庄内藩だけとなり、ここに来て藩主の酒井忠篤も領内を戦場にする前に新政府に降伏して謝罪する意向を表明する。藩内の意見は二分されたという。ここで酒井玄蕃の選択である。
これに対してゲストの意見は徹底抗戦の一色で、要は新政府軍には義がないし(所詮は私利私欲の戦いである)、もうすぐ雪が降ってきたら西から来た新政府軍にすれば戦いどころではないという意見である。一方の磯田氏はもうそろそろ攻勢限界点であり、落としどころはここら辺りしかないというのもの。なお私の意見も似たようなもので、未だに余力のある段階で降伏して、不当な条件を課してくるようなら「それならば徹底的に戦って我らの意地を貫くまで」と相手に脅しをかける交渉材料にするというものである。
そして玄蕃の選択だが、藩主に従って降伏を選択した。これで鶴ヶ岡城は開城され、新政府軍が入城した。率いるのは黒田清隆と西郷隆盛であり、下された処分は意外に寛大なものであり、玄蕃や藩主は謹慎となったが誰の命も奪われず、城下でも略奪などはなかったという。西郷が厳罰を主張する者達に「武士が1度兜を脱いで降伏した以上は何も心配することはない」と言ったという。その後も会津藩が領地没収で北海道に移されたのに対し、庄内藩は5万石の領地削減で済んだが、それも本間家や領民の働きかけで撤回されたという。庄内の人々は西郷に感謝したので西郷を祀る南州神社が酒田にあり、西郷の元には教えを請うために藩士が訪れたという。彼らは西郷の教えに基づいて松ヶ岡開墾場を設け、庄内藩氏達は刀の代わりに鍬を持って桑畑を開いて養蚕が盛んになったという。その後、酒井玄蕃は明治新政府の軍人となるが35才という若さで肺病でこの世を去る。玄蕃は生前に清国に派遣され、現地の事情や地形などをつぶさに調査した後、「戦いは難しくないが避けるべきだ」と報告したという。
庄内藩の降伏については「会津藩が降伏した時点で継戦は不可能だった」との意見があり、もう少し早く会津藩と連携して戦えていたらとの話が出ていたが、これは私も全く同意見である。奥羽裂列藩同盟は結局はまとまりに欠けたせいで各個撃破されてしまったというのが実相のように思う。また庄内藩がここまで善戦出来たのも、新政府軍がその主力を会津藩攻略に向けていたからであり、庄内藩がこの後に抵抗しても力で叩きつぶされただろうと予想出来る。
なお戦後の処遇については、西郷隆盛という武士道精神を重視する古いタイプの人物が交渉相手として出てきたというのは多いという話も出ていた。西郷から見れば庄内藩は「敵でありながら尊敬に値する」という相手だったに違いない。そうでないと後に酒井玄蕃が新政府軍に登用されるなどということはなかったと思われる。
なお鶴ヶ岡城は私は2011年に訪問しており、その時には酒田と鶴岡を巡って本間家ゆかりの美術品を展示している本間美術館も訪問しています。現地では「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」とまで言われたというぐらいの栄華を極めていたといいます(そしてご多分に漏れず戦後の農地改革で没落したらしい)。
忙しい方のための今回の要点
・旧幕府方で幕末最強と言われて新政府軍に連戦連勝したのが庄内藩である。
・庄内藩は徳川四天王の一人、酒井忠次の子孫の藩であり幕府を支える意志が強く、また領民も酒井氏の善政を支持していた。
・戊辰戦争で庄内藩は賊軍とされたが、奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と対峙する。率いたのは領主の一族でもある酒井玄蕃。
・庄内軍はイギリス式の訓練を受けて整然と行動が出来る上に、本間家の支援で武器弾薬も充実しており、玄蕃の的確な指揮もあって庄内領に侵攻してきた新庄藩と新政府軍の連合軍を撃破する。
・さらに新庄城に侵攻した庄内軍は新庄城を落城させる。玄蕃は降伏した敵兵の命を助けると共に、略奪等を禁止して、新庄領民には租税半減する。
・次に同じく新政府についた秋田藩の久保田城に向けて進軍、要衝を落としつつ久保田城に迫り、増援を受けて増強されていた新政府軍を激戦の上で撃破する。
・しかしこの頃に会津藩が降伏、庄内藩主の酒井忠篤も領内を戦場にする前に新政府に降伏して謝罪する意向を表明する。
・玄蕃は最終的には藩主の意向に従って降伏する。戦後処理には西郷が当たって、庄内藩に対しては比較的穏便な処置に留まる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・戦争は終わらせ方が大事で、とくにうまい負け方が重要なんて言葉もあります。そういう点では庄内藩は最終的にうまい負け方をしたということになりますか。
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