教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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12/27 NHK-BS 英雄たちの選択「天のことわりを見抜け!~渋川春海 改暦への挑戦~」

暦の誤差が社会的問題に

 現在では太陽暦が用いられているが、昔から暦は不可欠なものであった。古来中国では暦を制定するのは皇帝の仕事であり、日本でも朝廷が中国から輸入したものを使用していた。戦国時代にその暦を変えようと目論んだのが織田信長だが、それは果たせないままに本能寺で果てた。そして江戸時代、幕府と朝廷を巻き込んでこの暦を変えるという大事業に挑んだのが渋川春海である。

渋川春海

 江戸時代に使用されていた暦には日食や月蝕の予報が記されていた。それは朝廷などではこれらは不吉とされ外出が禁じられたからである。しかし江戸時代にはこれらの予報が外れることがしばしば起こっていた。当時使用されていたのは唐の時代に太陽や月の観測から造られた宣明暦であった。科学的に作られたもので平安時代に日本に伝えられたものであるが、この後日本には新しい暦が入ってこなくなり、結局はこの暦を800年以上使い続けることとなってしまい、その結果として誤差が積もって日食や月蝕が当たらなくなっていた。さらには各地域ごとに独自の暦が発展して流通することになってしまっており、秀忠上洛の際に伝えた日付が幕府と朝廷で暦が違っていたせいでズレて、あわや将軍と天皇が行き違いになるという事態まで発生しそうになったという。

 

 

改暦に起用された天文オタ

 このために幕府では改暦の気運が高まった。それを主導したのが会津藩主で四代将軍家綱の後見である保科正之だった。保科が白羽の矢を立てた1人が渋川春海だった。彼は幕府お抱えの囲碁師だが、子供の頃から星空の観測に興味を持ってそれが成人してからも続いていた。囲碁の対局でも悪手とされる初手天元を北極星をイメージして好んだという天文好きである。

 春海は古今東西の暦を調査し、中国の元の時代に作られた授時暦に注目する。精密な観測データに基づいた暦で、春海はこれに改暦すべきと上申する。そして授時暦の優位性を訴えるために宣明暦との日食と月蝕の予防勝負という公開実験を行う。予報を外す宣明暦に対し、着実に授時暦は予想を的中させ、宣明暦5回中2回的中に対し、授時暦は全回的中という成績を出す。そして運命の6回目の予測であるが、ここで授時暦が外れ宣明暦が的中するという結果になってしまう。その結果、授時暦は一長一短とされてしまい採用が見送られる。こうして8年に及ぶ春海の改暦への取り組みは頓挫することになる。

 春海はなぜ授時暦が予想を外したのかについての調査を実施する。自身で精密に天体観測を行って太陽の運航などをチェックしながら、文献の調査なども行った。その調査のために、当時はご禁制のイエズス会からの聞き取った知識を漢文でまとめた天経或問(ご禁制なんだが、水戸藩なんかは徳川光圀特権で結構所有していたらしい)などまで調査した。その結果、地球の公転は楕円軌道を取っているので太陽との距離が変わることで地球の公転速度が変化するのだが、その太陽に一番近い点と遠い点が暦が定められた頃より変化していること、さらには暦が定められた北京と京とでは経度の違いから日食などにはズレがあること(こちらの影響の方が圧倒的に大きいように私には思えるが)などが判明したという。そこで春海はこれらの問題点を修正した日本独自の暦を作成して大和暦と名付ける。

 

 

まさかの結果にも諦めずに逆転につなげる

 1683年11月6日、春海は改めてこの大和暦での改暦を幕府に上奏、綱吉がこれを承認して改暦計画は幕府から朝廷に持ち込まれて天皇の最終決定を待つことになる。

 1684年3月3日、霊元天皇が改暦の宣旨を下す。しかし新たに採用するのは中国が直前まで使用していた大統暦であった。春海の大和暦は元で作られた授時暦がベースと言うことで元寇の記憶が未だに朝廷にあったのと、改暦を幕府主導で行われることに対する抵抗があったのだという。その結果として朝廷は何の検証もなしに明が採用していた大統暦を採用することにしたのだという。ここで春海の選択である。この決定に従うのか、やはり大和暦を採用するべきであると働きかけるのか。

 これについてゲストの意見は分かれたが、実際の春海は大和暦採用に働きかけることになる。この時のキーパーソンが土御門泰福である。土御門家は安倍晴明を祖とする陰陽師の家系であり、2人は同じ神道の師の元に学んだ同門で、しかも天文仲間でもあったという。この泰福が関白の一条兼輝に働きかけた。さらに暦の名前を大和暦から天皇が定めた元号と同じ貞享暦とすることを提案したという(しっかり天皇に対するアピールも考えている)。そして半年後の10月29日、霊元天皇から再び暦を貞享暦に改暦するという宣旨が下るのである。これ以降、朝廷の専権事項だった暦の制定の権限が幕府に移り、幕府から地方へと暦の統制がしかれ、春海はこの功績で幕府の天文方のトップに就任する。

 

 

 以上、不屈の天文オタの改暦物語。とことん科学を貫いて目的を達成するんだが、それが成功した背景には、春海があちこちにコネを持っていて様々な根回しが出来たことが大きいとの話が出ていた。確かに間違いなくそうであろう。往々にして科学者は研究内容には情熱を持っているが、そういう根回しには興味がないと言う者が少なくない。しかしプロジェクトを実行しようとか、予算を確保しようとすると、特に日本ではこういう根回しがものを言うことになる。そういう意味では良い教科書とも言えよう。

 それにしても磯田氏自身が言っていたが、この番組は時折マニアックで地味な人物を取り上げることがあるのであるが、今回もまさにそういう例。正直なところ私も渋川春海と言われても「誰だ?それ」という世界であった。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・江戸時代、日本では唐の時代に制定された宣明暦が使用されていたが、800年以上経ったことでしばしば日食や月蝕の予報などが外れるなどのズレが発生していた。
・その上に地域ごとに独自の暦が発生したせいで、秀忠の上洛の日程が江戸と京都でズレて、あわや将軍と天皇が行き違いになるという事件まで発生し、改暦の必要性が認識されるようになる。
・保科正之が決定した改暦に起用されたのが、幕府お抱えの囲碁師で天文に強い興味を持っていた渋川春海だった。
・彼は元の時代に制定され、綿密な科学的考察で制定された授時暦の採用を提案、精度の証明のために6回の日食と月蝕の予報を宣明暦と比較する公開実験を実施するが、最後の予報を授時暦が外してしまい、授時暦の採用は見送られる。
・春海は授時暦が予報を外した理由を徹底的に調査し、地球の遠日点と近日点が当時とずれていること、北京と京との経度の違いなどが原因であることを明らかにし、それらを修正した大和暦を作成、それを採用するように幕府に上奏する。
・幕府は早速朝廷に伺いを立てるが、天皇が採用を宣旨したのは民で使用されていた大統暦であった。
・大統暦では再びズレが発生することを懸念した春海は、大和暦採用を再度上奏、彼の天文仲間だった土御門泰福が関白の一条兼輝に働きかけ、貞享暦と名を改めた大和暦が採用されることになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・日本では派閥力学やら偉い人の体面やらというくだらない理由で、最終的に全く役に立たないプランが採用されるということが往々にしてあるが、まさにそういう事例の典型例である。
・そしてそれが撤回されたのが、春海のコネを最大限に利用した根回しというのが、これまた。

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