ビザンティン帝国の最後の都市
ギリシアのタイゲトス山脈の一角にあるミストラ遺跡は、ビザンティン帝国の都市の遺跡である。14世紀広大なビザンティン帝国の第二の都市だった。
都市は山頂に城を置き、庶民が住む下の街、貴族の住む上の町があった。下の街には狭い通路を上って住宅の跡が今でも残っている。また修道院や教会は30もあった。ミストラは今では廃墟となっているが、パンナタッサ修道院には今も5人の修道女が暮らす。
上の町は城壁で囲まれており、厳重な二重の門をくぐると貴族の宮殿エリアにたどり着く。多くの邸宅が斜面に建てられ、傾斜を利用した構造となっていた。
ここからさらに上に登ると城にたどり着く。標高624メートルの頂きに地形を利用した城が建っている。非常に堅固で難攻不落の要塞である。4世紀末、ローマ帝国が東西に分裂し、東がビザンティン帝国だった。広大な領土を誇ったが、後にオスマン帝国に侵略され、14世紀にはミストラを含む3つの飛び地のみとなってしまった。その危機に抗うために作られたのがこの要塞都市であった。山上の城は迫り来る敵を直ちに察知するためのものでもあった。
芸術の都市としての活路を探ったが、帝国滅亡で廃墟に
このミストラを支えた海の要塞都市がエーゲ海に面したモネンヴァシアだった。首都であるコンスタンティノープルとミストラを結ぶ交易都市である。1本の道で本土とつながっているが、街の入口は一つで車では入れない。唯一の門をくぐった中には中世さながらの町並みが今も残っている。かつて交易で栄え、多くの芸術家もここを通ってミストラへと行った。
ミストラは芸術の街だった。傑作建築と言われる教会も残っている。またパンナタッサ修道院の礼拝堂の天井を飾るフレスコ画は、ルネサンスの先駆けと言われる作品である。芸術家の都としての活路を見出そうとしているのだが、ミストラに都を開いて150年後の1453年、コンスタンティノープルが陥落してビザンティン帝国は滅亡、ほどなくミストラも廃墟となる。廃墟となったミストラでは今は5人の修道女が自給自足の素朴な信仰の生活を送るだけである。
忙しい方のための今回の要点
・ギリシアの山岳地帯のミストラ遺跡は14世紀のビザンティン帝国第二の都市の廃墟である。
・山上には堅固な城が築かれ、その下には城壁に囲まれた貴族の街が、さらに下にやはり城壁に囲まれた庶民の街があった。
・かつては広大な領土を誇ったビザンティン帝国も、14世紀にはオスマンの侵攻で首都のコンスタンティノープルを含む3つの飛び地だけになってしまっていた。ミストラはその1つを守るための要塞だった。
・首都コンスタンティノープルとミストラをつないだ海の要塞都市がモネンヴァシアであり、ここは今でも中世の町並みが残る。
・ミストラは芸術の街としての活路を探っていたが、1453年コンスタンティノープル陥落でビザンティン帝国が滅びるとほどなく廃墟となる。今ではルネサンスの先駆けと言われる貴重な天井画を擁するパンナタッサ修道院に、5人の修道女が暮らすのみである。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・ビザンティン帝国の哀しき最後を伝える都市でもあり、それこそがローマ帝国の最後でもあるわけです。もっともビザンティン帝国は元東ローマ帝国と言っても、ローマとは関係ない地域にあったために、ローマ色はほぼ消滅してギリシア的になっていましたが。
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