教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

2/14 NHK-BS 英雄たちの選択「赤穂浪士・最期の49日」

間を揺るがした赤穂事件

 赤穂浪士の物語と言えば、松の廊下の刃傷事件から浪士の討ち入りまでを描くことが多いのだが、今回着目するのはその後の赤穂浪士の物語。この事件については幕府を始めとして、周囲の大名たちもいかに対応するべきかでかなり混乱したというが、そういう周囲の動きに注目するという、この番組らしい面白い視点である。

 この事件のそもそもの発端は綱吉による完全に片手落ちの裁定が原因であった。これについては私は「マザコン綱吉が、自身の母の叙勲のための根回しを滅茶苦茶にされて、怒りに駆られて不適切な裁定を下した」と前々から言っているが、それについては間違いなかろう。ただ問題は1度下した裁定を撤回するわけにも行かず、またこういう状況に至れば赤穂藩士としては討ち入りせざるを得ない状況になったということである。実際に当時の世の中の雰囲気も「赤穂藩士はいつ討ち入りするか」という討ち入り大前提の雰囲気となっており、これで討ち入りが起こらなかったら赤穂藩士が腰抜けと罵られかねない状況であったという。

歌川国芳による討ち入り図

 一番最初に騒動に巻き込まれたのは上杉家だった。上杉家の藩主の綱憲は吉良家からの養子であり、また綱憲の息子が吉良家に養子に入っていた。討ち入り発生の報を受けて上杉家の者が見に行くと、現場は上野介は首のない死体となり、息子の義周は深手を負っているという惨憺たる状況だった。綱憲としては赤穂浪士に追っ手をかけたいところだが、迂闊に動くわけにも行かない。一説によると追撃のための手勢を集めていたともあるが、その時に幕府重臣の畠山下総守がやって来て兵を出すのを禁じて動きが封じられたという。赤穂浪士は吉良を討ち取った後に泉岳寺に報告に向かったが、その途中で大目付の仙石氏の元に報告を送ったので、大目付らが急いで上杉家に圧力をかけたのだという。

 

 

幕府も対応を苦慮する中、浪士達の記録を残した堀内伝右衛門

 幕臣も裁きに頭を抱える。大罪人であるのは間違いないが、武士の行動としては天晴れな行動であり、直ちに判断することは出来なかった(そもそも綱吉の感情的な裁きに起因してるんだから)。結局、浪士らは泉岳寺に近いところに屋敷のある松平、水野、毛利、細川らに預けられることになる。

 預けられた大名も対応に困る。罪人として扱うか忠義の者として扱うか。松平、毛利、水野では罪人として扱うことにしたが、その中で細川綱利だけは藩主自らが浪士達を迎え、豪華な酒食でもてなし、幕府に彼らの助命を願い出たという。

 細川家で浪士達の世話役をしたのが堀内伝右衛門という人物だったが、彼がその記録を残している。彼は浪士達と距離を置くようにと命じられていたが、次第に彼らに交流を持つようになったという。58才になるまで合戦を体験したことのない伝右衛門にとっても、武士とはいかなるようにあるべきかということは考えるところがあり、是非とも浪士達の話を聞きたかったのだという。伝右衛門は若い磯貝十郎左衛門のために母への手紙を取り次いだりしていたという。これは幕府に禁じられている行為であり、発覚した時のためにすべては自分個人の責任であるという書き付けを所持していたという。伝右衛門の対応に浪士達も心を許して討ち入りのことについての話をするようになったという。これで討ち入りの詳細が残されたのだという。これらの記録を伝右衛門は武士のあるべき姿を伝えるとして記録していた。

 

 

綱吉も悩んだ挙げ句に裁決を下す

 幕府の裁定は長引いた。伝右衛門も彼らがご赦免になるのではという希望を持つようになる。庶民達は浪士達を義士と持て囃しており、大名からも助命嘆願が出るようになる。強権で平和な時代への意識改革を進めていた綱吉としてもこれは対応に葛藤があった。ここで綱吉の選択がある。

 なおゲストの判断はへそ曲がりの磯田氏以外は断固処罰(磯田氏も本音でそれは無理というのは了解済み)。これは私も同意。この場合、彼らを処罰しないと世の中のタガが狂ってしまう。ただ本来は一番正しい対応は磯田氏が言っていたように、浅野が何を言おうと断固として乱心として浅野匠を蟄居閉門させて、大学に家督を継がせるというものであったと考える。結局は怒り心頭のマザコン綱吉が、怒りにまかせて「死刑、死刑」と叫んじまったんだろう。恐らく事態がここに至って、綱吉は自分の行為を心底後悔したろう。

 で、当然のように浪士達には切腹の沙汰が下る(罪人としての斬首でなく、切腹であるのは一種の情けでもあるが)。なお吉良の息子の義周も領地召し上げの沙汰を受ける。結局はこの時に喧嘩両成敗をやり直したことになる(義周が実は一番可哀想である)。伝右衛門の記録によると、浪士達はいつもと何ら変わることのない様子で切腹に臨んだという。そして伝右衛門の記録は後の世に語り継がれるようになった。

 

 


 以上、その後の赤穂事件について。なお近年は綱吉の生類憐れみの令に対する解釈なども変わってきて、以前の馬鹿殿イメージから独自の理念を持った有能な政治家へとイメージチェンジが進みつつある綱吉であるが、この件に関しては感情に駆られてアホな裁決を下したものだと思う。また生類憐れみの令の趣旨は理解出来るが、結果的に過度の犬の保護で幕府の財政を圧迫した(結局そのツケは吉宗が必死で払うことになるが)ことを考えると、信念のある政治家とは感じるが、有能かどうかについては私はクエスチョンである。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・赤穂事件はそもそも綱吉の片手落ちの裁定が原因となっており、幕府も浪士達を大罪人として扱うか、武士の誉れとするかで悩むことになる。
・浪士達は泉岳寺近くに屋敷のある4つの大名家に預けられたが、細川家だけは彼らを立派な武士だと讃えてもてなした。
・浪士達の世話を命じられた堀内伝右衛門は浪士達の証言などをまとめ、手記として残して後世に伝えた。
・結局浪士達は大罪人として切腹を命じられるが、吉良家も取りつぶしとなり、幕府は改めて喧嘩両成敗の沙汰を下したことになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・綱吉の人間像を推測すると、かなりヒステリックなところがある人物という人間像が浮上するんですよね。恐らく綱吉が将軍に不適格と判断した連中なんかも、綱吉のそういう点を警戒したんだろうと思う。また学問を良くしていたようだが、多分に頭でっかちなところも感じられる。

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