教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

3/6 NHK-BS 英雄たちの選択「太閤狂乱?「秀次事件」~捜査会議 豊臣家"滅亡"への出発点~」

秀吉の後継者として関白となった秀次

 後から振り返ってみると、豊臣家滅亡の大きな原因となった関白秀次の切腹事件。これは秀吉が後に秀頼の脅威になり得るとみた秀次を無理矢理切腹に追い込んだ事件と見られており、年老いた秀吉の耄碌の1つとされていたが、実はこれは秀吉も想定していなかった事件だったのではというのが今回の内容。

切腹した豊臣秀次

 1590年、北条氏を滅ぼしその後に東北を平定した秀吉は天下統一をなす。しかし1591年1月、秀吉55才の時に名補佐役であった弟の秀長が死去。豊臣政権に狂いが生じる第一歩となる。そして8月には秀吉と淀君との間の子(とされていた)鶴松が3才で死去する。これで後継者をなくした秀吉は養子であった甥の秀次に関白職を譲り、自らは太閤となる。なお秀次像について宣教師は「思慮深い人物」との評を残している。そして補佐役には豊臣恩顧の田中吉政や山内一豊らが付けられる。

 そして秀吉は海外に目を向けて朝鮮出兵へと乗り出すことになる。唐の征服後は後陽成天皇に大唐の都に入ってもらい、秀次に大唐関白を任せるという構想になっていた。しかし当初は破竹の進撃だった日本軍も、朝鮮と唐の連合軍の反撃で戦線が硬直、補給路の長さが祟って多くの兵員が飢餓に瀕するという状況になる。

 

 

秀吉の意志に反して秀次が切腹してしまう

 そんな中、1593年に秀頼が生まれる。57才での我が子誕生に秀吉は狂喜する。しかしその一方で秀次は不安にさらされることになる。そして1595年7月に秀吉と秀次の間に決定的不和が生じたことが京の貴族の日記に記されている。その理由は秀次謀反の噂が浮上したことによるという。京には巨大な聚楽第が建造中であった。近年の研究では秀次が聚楽第を単なる館ではなく、外堀を構えた本格的な城郭として建造しようとしていたことが判明しており、これは秀次が本格的に天下人としての行動を起こしていたことの表れだという。

 1595年7月8日、秀次か秀吉に縁を切られて高野山に向かったと公家の日記に記されている。そしてその後に切腹の命が下されたとされているのだが、その前日に高野山で謹慎しろという命が下されたことが分かっており、これはしばらくそこで暮らせという意味なので、切腹の命が出るのは矛盾になるという。なお秀次が籠もった青巌寺(高野山金剛峯寺)は秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた聖地だという。しかし7月15日に秀次はその地を地で汚すように切腹してしまうのである。なお朝廷の記録には秀次は「無実なのに切腹した」というように記されており、これは身の潔白を証明するために切腹したのだという。

 

 

秀次の切腹で混乱する豊臣政権

 この死は秀吉に取っても予想外のものだったという。関白の秀次の存在は豊臣政権の正当性の証明のようなものであり、その秀次が自ら切腹するのは、豊臣政権の正当性さえ揺るがす一大事だったという。しかも対外遠征が行き詰まっている状況下。秀吉は直ちに対応が求められることになる。まず諸大名に秀吉や秀頼に従うことを示す証文を出させている。しかし事態は収まらず、諸大名が恐怖に駆られて秀吉の元にはせ参じたという。その切っ掛けは、秀次の正室の父で秀次の関白就任に貢献した公家の菊亭晴季が流罪になったことだという。そして秀次に親しかった伊達政宗は聚楽第に謹慎となり、秀次に接近を図っていた大名たちに次々と嫌疑がかかる。もっともそれがあまりに拡大しすぎると日本を二分する争いになりかねない。そこで秀次の妻子達を見せしめにすることになったのだという。30人余りの妻や3人の子がその対象となったが、大名の娘などもいたために寛大な処分を求める声もあった。ここで秀吉の選択である。秀次の一族に厳しい処分をするか寛容さを見せるかである。

 これに対してゲストの意見は分かれたが、厳しい処分については「そうせざるを得なかった」のではというもので、寛容さを示すのは「大名の潜在的不満を抑える」ということであった。ちなみに私の意見は「ここでは寛容さを示した方が良いのでは」というもの。

 

 

厳しい処分が結果として大名の離反を招くことに

 しかし秀吉の処分は全員の斬首という厳しいものだった。処刑された中には秀次に嫁いだ直後の駒姫(最上義光の娘)も含まれていた。さすがにこれは不憫であると徳川家康や北政所らも助命に動いたようだが、彼女も処刑されることになる。結局はこれで大名の心は離れたのか、後の伏見地震の際には最上義光は秀吉の元でなく家康の元に駆けつけたという。そして再度の朝鮮出兵の最中に秀吉が亡くなり、この時に処罰を受けた大名たちは家康に心を寄せることになり、豊臣家の滅亡につながる。


 と言うわけで結果からしたら秀次切腹は秀吉の致命的な大失態ということになったわけである。晩年の秀吉は明らかに耄碌してきていて失敗の連続なのであるが、それの最たるものが秀次切腹だったと思われる。なお秀吉自身の選択だけでなく、秀吉が高齢になることによって自分達の権力の将来を憂慮した秀吉の側近の奉行衆の動きもあったのではと千田氏が指摘していたが、それはまさにあり得る話。と言うわけで、そうなると再び石田三成悪党説の浮上となるわけだが・・・。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・天下統一を果たした秀吉だが、弟の秀長に続いて後継ぎの鶴松を失ったことで、養子にしていた甥の秀次を後継者に定めて関白位を譲る。
・しかし、その後に秀頼が生まれたことで秀次は自身の立場に不安を感じるようになる。
・そんな矢先に秀次が謀反の疑いをかけられて高野山での謹慎を命じられる。しかしその七日後、秀次は切腹をしてしまう。
・従来はこの切腹は秀吉の命によるものとされていたが、実は秀吉にとっても予想外の結果で、秀次による一種の捨て身の抗議ではないかという説が浮上している。
・関白の切腹で豊臣政権の正当性にまで問題が生じる事態に、秀吉は秀頼の一族を全員処刑という厳しい姿勢を示すことで自身の正当性を示そうとするが、秀次の妻には大名の姫がいたことなどから、結果として大名の心が離れる原因となってしまう。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・秀吉が秀次の切腹まで目論んでいたかというのは、確かに正常な判断から考えると疑問があるところではあるが、問題はこの時の秀吉が果たして正常な判断を下せる状態だったかということにもある。
・秀頼可愛さに目が眩んでいた秀吉は、やはり将来に秀頼が成人した時に秀次からすんなりと関白位を譲られるかということに不安を感じて、秀次を排除した可能性はやはりあると思うんだが。もっともそれをやった秀吉は相当耄碌していたのは確かだが。

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