今回の番組は、なぜかスタジオを出て東寺で収録している。その意図は・・・と思ったが、実のところ番組が終わってみると磯田氏が大はしゃぎしていた以外にはほとんど意味はない(笑)。それはともかくとして、今回の内容はまさに応仁の乱前や、将軍が暗殺されるという大事件である嘉吉の変についてのお話。
将軍が暗殺されるという前代未聞の珍事
嘉吉の変とは室町幕府六代将軍の足利義教が、いきなり押し入ってきた武装集団に殺害されるという大事件である。この時の義教は関東の反幕府勢力を討伐した祝いで連日家臣達の屋敷で酒宴を開催していたという。そして夕闇が迫る頃、突然に数十人の甲冑武者が乱入、あっという間に義教の首を取ってしまったのだという。知らせを受けたある公家は「前代未聞の珍事、言語道断の次第」と記したという。
義教は大名家の家督争いに次々と介入し、自分の意に沿う者を跡継ぎに据えていた。その強権的な手法は「万人恐怖」と呼ばれていたという。そして重臣が次々と失脚させられていく中、残った赤松満祐が次は自分と失脚をされられる前に先手を打って将軍暗殺という挙に出たのであった。
討伐軍さえすぐに送れない幕府の大混乱
その場には幕府の重臣も同席していたが関東管領の細川持之は本来なら将軍を守らなければならない立場にもかかわらず、慌ててさっさと逃げ出しており、このことは世間から嘲笑を浴びることになる。細川持之は事態の収拾のためにまずは足利家縁の者を立て、後に義教の長男の義勝を七代将軍に立てる。義勝はまだ8才だったために、政は管領である自分が行うということにした。さらに播磨の自領に戻った謀反人の赤松満祐を討伐するための幕府軍を派遣する。司令官には山名持豊を任命した。しかしこの山名がなかなか動かない。持之の人望は地に落ちており、つまりは山名持豊に馬鹿にされていたわけである(まあ武士のくせに主君を守らずにさっさと逃げ出した腰抜けとなれば仕方ない)。持之はやむなく山名達を動かすために天皇の権威を利用する。天皇の綸旨を出してもらったのだ。しかしこれは幕府の権威を傷つけることになる。ようやく山名達も動きだし、これで事態は収拾すると思われたのだが、ここからさらに事態は予想外の大混乱へと進む。
徳政令を求めて大規模な土一揆が発生
嘉吉の変の2ヶ月後、幕府の権威の象徴でもある東福寺が1000人を越える一揆勢に占拠されるという事件が発生する。一揆は庶民層による土一揆だった。幕府軍が赤松討伐に出払った隙を見計らって近江からなだれ込んできたものだった。一揆勢はわずか3日で3万に膨れあがり、京の主要な寺院16カ所を占拠する。さらには街道まで封鎖した。この時に占拠された寺院は幕府との関わりの深い富を持つ寺院であった。彼らが幕府に要求したのは徳政令の発令だった。室町時代には貨幣経済が発達し、そのことが貧富の差を拡大させていた。この時代に一番富を持っていたのは土倉などの高利貸しであった(日野富子が高利貸しをして蓄財したという話も室町時代にはある)。また室町時代のこの時期は気象変動に襲われた時期で、農業は大打撃を受けており、庶民は借金で何とか食いつないでいるという切迫した状態であった。セーフティーネットも何もない時代で、限界に来た庶民は借金帳消しを要求したのである。
この一揆が大規模化したのには、馬借と呼ばれる運送業者の介在が大きかったという。人の行き来があまりさかんでなかったこの時代、村の外の状況はよく分からないので、単発的な一揆が起こったところで鎮圧は容易であった。しかし馬借は仕事柄独自の情報網を持っているので、外の情報がよく伝わっていた。そのために一揆が大規模化したのである。
一揆勢の要求に屈した幕府
一揆勢は東寺も占拠して、もし要求が通らなければ伽藍を焼き払うと脅迫する。細川持之は選択を迫られることになる。1は要求を呑んで徳政令を発布することだが、これは幕府に対して納税している土倉や寺社に打撃を与えることになり、幕府の財政に傷をつけることになる。2は武力鎮圧だが、これ軍の主力は出払っている上に、幕府の中にも畠山持国のように武力鎮圧に反対の者もいた。畠山持国は有力な土豪や農民を家臣にしていたために、彼らを守るために武力鎮圧に反対したと考えられるとのこと。
結局持之は要求を呑んで徳政令を発布することにする。こうして一揆は収まる。その頃赤松討伐の方も幕府軍に迫られた赤松満祐が自刃して決着していた。しかし山名持豊は京都に戻らずそのまま赤松領に留まった。結局持之は山名の要求を呑んで播磨の守護に任命する。しかし持之は翌年病死、管領には畠山持国が就任するが、彼の死後の後継争いが発端となり、山名宗全と改名した山名持豊と細川持之の息子・勝元が全面衝突することになり、これが応仁の乱となるのである。
応仁の乱のまさに前夜と言うべき嘉吉の変のドタバタであるが、こうして見ていると細川持之の駄目さ加減が際立つ。磯田氏が細川持之は「偉大なイエスマン」と言っており、要は足利義教のような独裁的な主君の下でイエスマンでいることで立場を守っていたのだろう。別のゲストが「室町幕府は村の寄り合いみたいなもの」と言っており、つまりは平時ならなあなあでどうにでもあるのだが、このような異常事態になれば全く機能しなくなったのだろう。単なるイエスマンであった細川持之にはリーダーシップなんてものは期待できる余地もなく、その挙げ句に山名持豊のような野心家まで現れてとなったらもう収拾がつかなくなるのは理の当然。結局は大混乱の中で持之は何もろくに動かすことが出来ず、幕府の権威を落とす方へ落とす方へと動いてしまったことになる。
この番組は昨年の6月に放送されたものらしいが、その時にも「今の時代につながる云々」ということを言っているが、この持之の醜態はコロナの流行の前にまともな手も打てずに右往左往しているまさに今の日本の政府の醜態をも連想させる。彼らも平時に自らの利権を確保するだけなら問題なく?行えていたが、このような有事になって国の適切な舵取りを求められる事態になれば、どうすればよいかが分からなくて右往左往の大醜態である。室町時代は結局はこの後は大混乱の応仁の乱を経て戦国時代に突入してしまったのだが、今の日本もいずれは大動乱に巻き込まれるのだろうか。番組ゲストの一人が「富の再分配が上手くいかなくなった時に、そのシステムを根本から変革するような動きが起こる」というようなことを言っていたが、富の再分配が上手くいっていないというのは、まさに現代の話である。
忙しい方のための今回の要点
・嘉吉の変は、強権的な政策をとっていた将軍足利義教が、自身が粛正される危険を感じた有力守護の赤松満祐に殺害されるという前代未聞の事件だった。
・この事件に同席した管領の細川持之は将軍を守りもせずに慌てて逃げ出したことで世間から嘲笑を受けることになる。
・とりあえず後継の将軍を立てた持之は、山名持豊を赤松の討伐軍司令官に任命して、幕府軍を派遣しようとするが、既に持之には権威がなく持豊は一向に動こうとしなかった。
・やむなく持之は天皇に赤松討伐の綸旨を出してもらうが、これは幕府の権威を落とす行為であった。
・しかも幕府軍が赤松討伐に出向いた隙を突いて、徳政令を求める大規模な土一揆が京都で発生、幕府縁の寺院を占拠して、要求が通らなければ伽藍を焼き払うと脅しをかけるという事態が発生する。
・これに対して持之は一揆勢の要求を呑むが、さらに幕府の権威が落ちることとなり、これが後の応仁の乱にもつながっていくことになる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・なんか絵に描いたようなダメダメリーダー(と言うか、そもそもリーダーでさえない)のお話でした。日本はこの手の調整型(と言えば聞こえが良いんですが、要は何も決めない人です)のリーダーが多いです。それはこのタイプはとにかく敵は出来ないから。だから特に何を決断する必要のない平時だと何となくトップになってしまう場合があるんですが、一朝事が起こった時にすぐに馬脚を現すというか、大破綻してしまうことになる。
・室町幕府って何か最初の頃からすごく人材不足感があるのですが、この頃になるともう目も当てられないようですね。結局はそれが致命傷になってしまった。
次回の英雄たちの選択
前回の英雄たちの選択