斎藤道三の国盗りは二代の話だった
油売りから美濃の領主にまで成り上がった下克上の申し子のように考えられている斎藤道三であるが、最近見つかった資料によるとどうやら父から二代かけての成り上がりだったということが分かってきたという。
六角氏の書状によると道三の父は法華宗の僧侶をしていたが、寺を出た後に油を売る商人になったという。当時エゴマの油の商売は寺人が行っており、道三の父は法華宗のネットワークを利用して商売をしていた。やがて交通の要衝である美濃に出向き、守護代である斉藤家に出入りするようになる。各地の知識が重宝され、斉藤家の家臣の長井家に仕え、名を西村勘九郎と変える。さらにその後、戦で武功を上げて長井の姓を与えられ、長井新左衛門尉と改名した。
彼がそのように力をつけられたのは現在の美濃市の一帯を支配し、紙の流通を一手に握ったためだと考えられる。力をつけた長井新左衛門尉の名はあちこちの書状に出てくるのだが、ある時から突然出てこなくなるのだとか。そしてその後に出た書状に長井新九郎規秀という名が記されており、これが道三であると推測されるという。つまりこの間に道三の父はなくなったと推測されるとのこと。
美濃の中でのし上がっていく道三
ここから道三の暗躍が始まったという。まずは主君である長井氏を滅ぼし、守護である土岐氏の権力争いに関与して土岐頼芸を押し上げて土岐頼純を追放、そして頼芸から守護代である斉藤の姓を名乗る承認を得て斉藤利政と名乗るようになる。この間わずか4年ほどだという。
しかし美濃の国主を狙う道三は当然のように頼芸と対立していくことになる。道三を警戒する頼芸は道三の侵攻に備えて大桑城という堅固な城を築く。城と言えばやはりこの人ということか千田氏が現れてこの城を調査しているが、石垣まで用いた非常に先進的で強固な城であったという。また土岐氏は越前の朝倉氏との関わりが深く、朝倉氏が築いたとされる四国堀の後が残っているという。
これに対して道三は稲葉山城を築いていた。最近になって道三時代の石垣が見つかったのだが、つまりは非常に最先端の技術を駆使した城であった。また道三は城下町を建築し、そこでは自由な商売が行われていた。要するにかつては信長の先進性の証明のように言われていた石垣の城に楽市楽座は道三が先に行っていたということになる。
織田信秀の侵攻を撃退し、織田家と和睦する
美濃の確保を目指していた道三だが、北には土岐氏と結びついている朝倉氏が、南には織田信秀が脅威として存在していた。そしてついにこの両者が美濃に侵攻してくる。この危機に際して道三は籠城して手を出さず、稲葉山城の堅固さに攻めあぐねて織田軍が引き返そうとしたところを伏兵が急襲、織田勢は混乱して大敗、5000名の犠牲を出したという(大河ドラマ2話目に出てきた戦い)。
やがて尾張内部の争いと今川の圧迫に疲弊した織田信秀が講和を申し込んでくる。道三の娘と信秀の嫡男である信長との婚姻を行うという話である。ここで道三の選択だが、1つは織田と講和する。もう一つは今川と手を結ぶというもの。史実では道三は1の選択をしたのは自明なのだが、番組出演者の意見は二つに分かれた。ちなみに私の意見も「今川と結ぶ」である。今川と結んでさっさと織田を滅ぼして尾張を版図に収めてしまえば極めて強固な国を作ることが出来ると考える。もっともそうなった場合、上洛を目指す今川と対立状態になるのは確実だが、大軍の割にはあまり強くない今川勢なら、道三の敵ではないと見る。
信長と信頼関係を築くが、息子の義龍と対立して戦死する
とにかく道三は織田と結んだのだが、この時に信長と面会して信長の器量を見抜いたと言われている。信長が今川と戦う時に道三に本拠の城の防衛を頼んだりなど、この両者の間には奇妙な信頼関係があったようであることは、以前にヒストリアでも紹介していた。実際に道三はいずれは自分の息子は信長の家臣になってしまうだろうと考えていたという。織田と和睦した道三は、土岐氏を支援していた朝倉孝景が急死した機をついて土岐頼芸を攻めて美濃から追放してしまい美濃の国主となる。
しかし道三はその後に軽く見ていた息子の義龍と対立することになり、ついには軍事衝突に及ぶのだが、義龍についた兵は1万7千に対し、道三についたのはわずかに2千ほどだったという。ワンマンな道三は既にこの頃になると家臣の人望を失っていたということである。番組ゲストの一人が「組織の発展段階に応じて必要なリーダーのタイプが変わるのだが、この時になると道三は組織の状況に合わなくなっていたのでは」というように類いのことを言っていたが、まさしくそうだと思う。重臣の合議制を取っていた義龍の方が家臣の受けが良かったのである。結局は多勢に無勢で道三は戦死してしまうが、その前に美濃を信長に任せると書き残したとされている。
以上斎藤道三について。もろに大河連動企画であるが、番組の最後で磯田氏が「道三の弟子とも言えるのが信長と光秀ではないか」と見事に番組の立場を考えた綺麗な締めを入れて終わっている。いつも暴走気味の磯田氏にしては珍しいぐらい空気を読んだ発言である(笑)。
内容的には以前のヒストリアと被る部分がかなりあったのはまあ仕方のないところか。なお道三の国盗りが二代にかけて行われたとすれば腑に落ちるところがあると言うのはまさに私も感じていたところ。番組ゲストの一人が私の考えとほぼ同じことを言っていたが、商人の立場から成り上がっていく才と、武士の中で頭角を現して国を乗っ取ってしまう才とに微妙なズレがあり、これが一人の人物と考えるとやや無理があるような気がしていたのは確かである。
なお最近の一連の研究成果から一番分かるのは、今までは何でもかんでも信長が先進的に取り組みを突然に行ったように言われていたが、実はその信長も道三など先人の行動を参考に独自に発展させてたということである。この信長に対する過大評価の調整のようなものが歴史を見る上での意味としては一番大きいような気がする。
忙しい方のための今回の要点
・今までは道三は一代で油売りの商人から美濃の国主までなりあがったとされていたが、実は道三の父と二代かけての国盗りだったことが明らかとなってきた。
・法華宗の僧侶だった道三の父は油売りの商人として美濃の守護代の斉藤家に出入りするようになり、その家臣の長井氏に仕え、やがては長井の姓をもらうようになった。
・後を継いだ道三が土岐氏の権力争いに乗じて成り上がり、守護代の斉藤氏を名乗るようになる。しかしやがて守護の土岐頼芸と対立するようになる。
・土岐氏の背後には朝倉氏がいて、道三は朝倉氏と織田信秀の侵攻を受けるが、これを撃退している。
・尾張の内紛と今川の圧迫で疲弊した織田信秀は道三に対して和睦を提案。これによって帰蝶(濃姫)と信長の婚姻が定まることになる。
・信長と面会してその器量を見抜いた道三は、その後信長との間に奇妙な信頼関係を築くことになる。
・土岐氏を追放して美濃を手中にした道三であるが、やがて息子の義龍と対立、結局は軍事衝突となって敗北、命を落とすことになる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・斎藤道三と言えば腹黒い策士というイメージが強いですが、昨今の研究の結果から見ると策士と言うよりも知将というイメージが段々と強くなってきてます。特に信長の師匠というのはポイントが高い。
・ところで大桑城ですが、私はこの城にはまだ行ってなかったな・・・。いずれ近いうちに訪問したいところです。まだまだあちこちに行ったことのない重要な城郭が残っているようです。
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