教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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"桶狭間の合戦は実は奇襲ではなかった?" (7/13 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「真説!桶狭間の戦い~信長の勝利は奇跡ではなかった!?」」から)

桶狭間の合戦を最近の研究に基づいて再検証

 信長が一躍天下取り競争に名乗りを上げた桶狭間の合戦。この合戦は、圧倒的な兵力差のある信長軍が、今川軍の隙を突いての奇襲攻撃による奇跡の勝利である・・・というのが今までの通説であったが、実はそうではないというのが近年の研究。そのような近年の研究結果について紹介する。例によってネタ元は小和田氏のようである。

 まず義元が尾張に侵攻した理由であるが、従来は上洛のためとされていた。そもそも今川家は将軍家につながる名家であり、将軍家が絶えたら吉良家が継ぎ、吉良家が絶えたら今川家が継ぐとされていたという。しかしこの頃、将軍家は大混乱で吉良家は没落してしまっているわけであるから、義元が上洛して天下に号令することを考えたとしても不思議ではないという話。しかし実は今川の資料には上洛というような話は全く出てこないという。それにそもそも織田を滅ぼしたとしても、まだまだ斉藤や六角など上洛のための障害は多数存在する。ここはやはり義元が織田の尾張を併呑しようと乗り込んできたというのが妥当ではとのこと。

 今日言われている桶狭間の戦いの模様は主に陸軍参謀本部が編纂した「日本戦史桶狭間役」に基づいているという。しかし実はこの日本戦史における桶狭間の合戦の記述は現在一級資料とみられている「信長公記」とかなり食い違いがあり、昭和50年代になって見直し説がかなり出てきたのだという。また「日本戦史桶狭間役」は、信長公記を基にした江戸時代の仮名草子の「信長記」を基にしているのだが、この「信長記」は誇張や脚色が多い(三国志演義のようなものか)として、今日では資料的な価値が低いとされているのだという。こうして大幅に見直されることとなった桶狭間の戦いはどのようなものだったか。

 

実は信長はそんなに不利というわけではなかった

 今川軍が国境の沓掛城に入ったのは桶狭間の合戦の前日。この頃、尾張東部の大高城・鳴海城なども既に義元の支配下に入っていた。これに対し信長は鳴海城の周囲に丹下砦、善照寺砦、中島砦を築き、大高城の周囲には鷲津砦、丸根砦を築いて今川勢を牽制していた。義元は軍議を開いて大高城に兵糧を入れることと鷲津砦、丸根砦の攻略を命じる。

 その夜、今川来たるの報を受けて信長は軍議を開いた・・・と「日本戦記」にはあるらしいが、「信長公記」にはこの記述はないという。信長は清洲城の中に内通者がいることを考え、情報漏洩を防いだのではとのこと。そして今川軍が丸根砦と鷲津砦への攻撃を開始したとの報を受けると、「敦盛」を一差し舞ってから、直ちに出陣の合図を出して近習5人だけを引き連れて熱田神宮に入ったという。

 熱田神宮に入った信長は砦に援軍を送るでもなく砦の方向を注視していたという。恐らく信長は今川の軍勢を分散させるためにあえて両砦は捨て石にしたのだろうと推測されるという。そして両砦が落ちたのを見定めると3000の兵を率いて善照寺砦に入る。

 信長の兵3000に対し、義元の軍勢は2万5千。また遠江・駿河・三河の三国を治める義元に対して、信長は尾張一国と圧倒的な兵力と国力の差があるとされていたのだが、実はこれもそれほどではないという。両者の石高を考えた時、太閤検地での値を参考にすると、義元の領地の石高は約70万石に対し、信長の尾張は生産力が高いために57万石の石高があり、両者の国力の差はそんなに大きなものでなかったという。さらに兵力についても義元の軍勢は9割が農民であるのに対し、信長軍は既に戦専任の精鋭部隊である親衛隊を700~800人有していたので、単純な兵力数でなくその質を考慮した時には、やはりそんなに大きな差でなかったというのである。

 

信長は義元の本陣に正面攻撃をかけていた

 信長が善照寺砦に入った時、佐々政次と千秋秀忠が300ほどを率いて今川の前衛部隊に攻撃をかけて全滅するという事件が起こる。これについては抜けがけではと言われていたのだが、信長の指示による攪乱作戦と考えるのが妥当だろうとのこと。この間に信長は2000ほどの部隊で中島砦に移動しているので、その目くらましではないかとのこと。

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桶狭間古戦場公園にある信長と義元の像

 さらに信長が義元の本陣に攻め込んだルートであるが、これは従来は迂回して義元の本陣の後方を突いたとされていたのだが、たとえ迂回したとしても信長軍の動きを隠しきることは難しいことから、実は正面攻撃をかけたのではという説が現在は有力になっているという。信長軍は義元の前衛部隊を倒すのだが、そこで前衛部隊から本陣への伝令を捕殺することで、本陣に情報が伝わらなくしたのではというのである。そしてそのまま、にわかに降り始めた豪雨に紛れて本陣に攻撃、大混乱の中で義元を討ち取ったというのである。

 

 つまりは奇跡でもなんでもなく、最初から信長の計算尽くの上に、十分に勝算もあっての戦いだったというのである。ちなみに今年の大河ドラマの「麒麟がくる」は明らかに小和田氏の見解に従って桶狭間の合戦を描いていた。しかも途中でご丁寧に今川の兵力について池上彰並みのご丁寧な解説付きで。

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 ただ桶狭間の真相については私もこの辺りが妥当だろうと考える。信長は計算高い男であるので、勝算の立たない状況で一か八かの戦いを義元に対して仕掛けるなんてことはしなかっただろうと思う。生き残るためには手段を選ばなかった信長であるから、それこそどうやっても義元に勝ち目がないと判断したら、一時的に義元に降るぐらいのことさえした可能性があると考える。勝算が見込めたから戦いを挑んだのだろう。

 義元の領国はそもそも山岳部が多いので、領土の広さほどの石高はないのは明らかで、それは見渡す限り平地の尾張とは根本的に違う。それに港を押さえて流通の中心で商業も盛んな尾張は経済力もある。そういうことを考えると、両国の国力差は大してなかったというのが妥当だろう。だからこそ義元は信長が台頭してくる前に叩こうと急いだのではないか。この時期の信長は尾張の道三とも同盟していたわけであるから、後顧の憂いなく今川に当たれるわけであり、今川にとっては逆に脅威だったぐらいだろう。

 そもそも両国にそれだけの国力の違いがあったとすれば、いくら義元が討たれたからと言っても、その後にあそこまで見事にズタボロになるということもないだろうと考える。確かに跡継ぎの氏真はボンクラだが、桶狭間の合戦では今川軍の精鋭が全滅したというわけではないのだから。家康が今川と織田を両天秤にかけて織田に寝返るぐらいには拮抗していたと考えるのが妥当だろう。

 なお信長が実は正面攻撃を仕掛けていたというのは、以前に「歴史科学捜査班」でも取り上げていました。

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忙しい方のための今回の要点

・桶狭間の合戦は信長の大胆な奇襲攻撃による奇跡の勝利とされてきたが、実は様相がやや異なっていることが近年の研究で分かってきている。
・まず両者の国力の差だが、確かに義元は三国、信長は尾張一国のみだが、尾張は生産性が高いために石高では70万石と57万石と3倍もの差は存在しない。
・また兵力についても、今川は2万5千の内の9割は戦闘訓練を受けていない農民であり、戦闘専業の親衛隊を700~800要していた織田軍と比較した時、兵数ほどの大きな戦力差はなかったと言える。
・さらに信長は迂回して義元の本陣の背後をついたとされていたが、実は迂回しても軍勢の動きを隠すことは難しいことから、近年の研究では正面突撃をしたという説が有力となっている。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・今川義元は「東海一の弓取り」と言われたぐらいで、実は愚将でもなければ、公家かぶれの軟弱武将というわけでもなかったのですが、圧倒的に不利とされた信長に討たれてしまったせいで、評価はガタ落ちです。おかげでゲームなどでは完全に雑魚扱い。アニメなんかでもモブにされてしまってます。ある意味で一番気の毒な人。
・息子の氏真も戦国武将としては超無能と言って良い人なんですが、結局は戦国時代を生き抜いて今川家を後世に残してるんですよね。そう言う点では実にしたたかなところのある人物。また戦略結婚であったにも関わらず愛妻家だったらしいという話もある。何か話を聞いてみればみるほど「現代っ子」な感じがするんですよね(日本最初のファンタジスタですし)。実はこの今川氏真という人物にも興味があります。

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