教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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11/16 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「長篠の戦いの真実~織田徳川vs武田軍」

 武田勝頼率いる武田騎馬軍団が、織田徳川連合軍の3000挺もの鉄砲の前に惨敗したとされる長篠の合戦。騎馬軍団の破壊力を過信して鉄砲隊の威力を過小評価した勝頼の無謀が武田家の滅亡につながる大敗を招いたとされているが、実際はそう単純な話ではないということである。

 

長篠の合戦の発端

 まず長篠の合戦は武田勝頼による三河攻めに端を発している。この時に信長は石山本願寺と戦っており、援軍は送れないはずとの読みがあったという。最初は岡崎城に狙いを定めて寝返り工作などを行うが、それが発覚して失敗。吉田城攻略を狙ったが、籠城されたために長期化の恐れが出て来て断念、結局は前線の長篠城に狙いを定める。城主は武田方から徳川に寝返った奥平信昌、城兵500だったという。ただし長篠城は断崖に守られた要害であった。勝頼はこの城の攻略に1万5千の兵を投入、周囲に付城を作って包囲する。

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長篠城は手前を堀などで防御して本丸一番奥の配置

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本丸背後は切り立った崖の堅城

 武田軍は兵糧を蓄えている二の丸に対して攻撃を行う。城兵は二週間にわたって頑強に抵抗したが二の丸は落ちて本丸だけの状態になるという。食料を失ってしまった城兵にとっては頼みは家康による後詰めだけだが、完全包囲されている長篠城には後詰めが来るのかどうかが不明だった。

 そんな中で決死の覚悟で岡崎城に使者として出たのが下級武士の鳥居強右衛門だった。彼は深夜に長篠城を脱出すると50キロ先の岡崎城まで半日で走り抜ける。岡崎城には家康だけでなく信長も到着していた。状況を報告した強右衛門に後詰めを約束した彼らは、強右衛門に休養を取るように言うが、強右衛門はこの報を一刻も早く伝えたいと長篠城にとんぼ返りする。しかし長篠城に忍び込むことが出来ずに様子を覗っている時に武田軍に捕らえられてしまう。織田徳川の連合軍がやって来ることを知った勝頼は、強右衛門に「援軍は来ない」と嘘の情報を城内に伝えたら武田の家臣として厚遇することを約束する。しかし本丸を前にした強右衛門は城内に向かって「援軍は間もなく来る」と叫ぶ。城内からは歓声が上がったという。そして怒った勝頼によって強右衛門は磔にされる。

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磔となった強右衛門を描いた現地の看板

 

設楽が原に布陣した織田徳川連合軍

 やがて織田徳川の連合軍が到着する。連合軍は設楽が原に布陣する。ここは窪地になっていて兵を隠せるからここを選んだと信長公記にはあるらしいが、これについては地元の地理に詳しい設楽原歴史資料館の湯浅大司氏はこれを否定する。と言うのは、背後にある雁峰山に登るとすべて丸見えであり、武田軍は当然この山に物見を行かせたはずというのである。湯浅氏の解釈はむしろ大軍を見せつけることで武田が撤退することを狙ったのではと言う。実際に1万5千の武田軍に対して、織田徳川連合軍は3万8千と倍以上の兵力があったという。

 設楽が原に到着した連合軍は土塁や馬防柵を築くなど着々と要塞化を進める。そして一番敵兵が集中しそうなところには大兵力である徳川軍を布陣させたという。

 一方の武田軍では軍議が行われ、一時撤退、長篠城攻略の続行、決戦などの意見が出たらしいが、勝頼の腹は決戦で決まっていたようである。勝頼が無謀とも言える決戦にこだわったのは、諏訪家出身で立場が微妙だった勝頼としては、自身が正当な後継者であることを示すにはここで実力を見せる必要があったということが大きいのではないかとしている。

 こうして勝頼は決戦に挑むが、連合軍の陣地は堅固で攻城戦のようであったという。また前日に迂回軍が長篠城の武田の付城を攻撃して長篠城の包囲を崩しており、武田軍にとっては背後を絶たれたようなもので、目の前の軍を撃破することが急がれたという。

 

三段撃ちの真相

 しかしそれを連合軍の火縄銃の三段撃ちが待ち構える。なおこの三段撃ちについて三列で順番に撃ったという説は今ではほぼ否定されているが、そもそもそのように言われたのは信長記に「千挺づつ放ち懸け一段づつ立ち替わり立ち替わり打たすべし」との記述があり、一段を一列のことと解釈したからだという。しかし武田氏研究会副会長の平山優氏は「段を列と解釈するのは間違いである」という。古文書を研究したところ、段には列という意味はなく、部隊という意味であるという。このことから鉄砲隊を3隊にわけて順番に撃っていたとのことだという。

 今までは馬防柵に沿って鉄砲隊を均等に配置していたと考えられていたが、実際の設楽が原の地形では田んぼがあるので騎馬隊が田んぼから攻め寄せてくるとは考えにくく、道沿いを攻めてくると推測されるので、その部分に鉄砲隊を分厚く配置したのではと考えられるという。つまりはそこに三隊の鉄砲隊を置いて弓矢も交えて集中攻撃をしたと考えられるという。

 

武田軍の被害が拡大した原因

 結局はこの攻撃で武田軍は大打撃を受け、勝頼もついに撤退を決意するのだが、武田軍がここまで大被害を出した原因として「武田軍が鉄砲の威力を過小評価していた」と言われることがあるが、実のところは信玄も鉄砲の配備には熱心であり、武田方も連合軍と変わらない性能の鉄砲を装備していたと言う。しかしここまで差が出た原因は、鉛や硝石の調達力の差だという。国内で調達が困難なこれらの物資を信長は海外から輸入しており、鉛などは東南アジアからはるばる調達していたというのは、以前にNHKスペシャルの「戦国」でも言っていたところである。これに対してそのような調達ルートのない武田氏では、撃ち合いになると早々に弾薬が尽きてしまい、結果として騎馬の突撃に頼らざるを得なくなったとする。

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 また要因の一つは武田軍の論考褒賞システムにもあるという。武田軍では「場中の高名」と言って激戦地での働きが高く評価される伝統があり、そのために馬防柵の周辺の激戦地に全軍が押しかけることになったのではとのこと。

 何にせよ、この戦いで武田軍は数千の兵と多くの重臣を失い、この7年後に武田氏は滅亡することになる。

 

 とこうして経過を見てみると、勝頼にもそれなりの事情があったわけで、決して勝頼が無能だったということではないのではある。元をたどれば後継者争いのゴタゴタが原因で、信玄が意見の対立から嫡男の義信を自刃させてしまい、勝頼が急遽後継者に立てられたという事情が祟っている。しかも勝頼を完全に不動の後継者とする前に信玄が亡くなってしまったので、中途半端な状況で後を託された勝頼としても大変だったろう。

 実際に素直に義信が武田の後継者となり、諏訪の勝頼がそれを弟としてサポートするという形になっていたら、武田家もそう簡単には滅びなかった可能性が高い(もっとも甲府の義信と諏訪の勝頼が対立することになる可能性もあるが)。武田にしても上杉にしても、戦国時代において最も強かった武将が共に後継者への委譲で失敗して、滅亡や勢力減退につながったのは皮肉なことであり、これがあったから信長が天下を取る目が出て来たわけでもある。

 なおこの戦いにおいても信長はとことん経済力で勝利を収めていると言える。鉄砲や弾薬の調達力などは信長の経済力の賜物である。なお番組では触れていないが、鉄砲という兵器は攻城戦よりも拠点防御戦の方が効果を上げやすいという特徴があるのだから、野戦築城した陣地に武田軍が攻撃をかけるという図式にした時点で、既に連合軍側の勝利は決していたとも言える。これがもう少し後の時代なら、武田軍側が連合軍の陣地に対して大砲での攻撃を行うという方法もあったのであるが、この時代にはまだそれは無理である。

 

忙しい方のための今回の要点

・長篠の合戦は三河攻略を狙う勝頼が、信長が本願寺と戦っていたことで家康に対して援軍を送ることが困難と考えて、長篠城攻略に乗り出したのがきっかけとなっている。
・500の兵で1万5千の武田軍と戦った長篠城は、奮戦するものの食料もなくなり落城寸前となる。しかしこの時に鳥井強右衛門が命がけで後詰めの到着を城兵に伝えたことで士気が回復、城を守り通す。
・織田徳川連合軍は3万8千と武田軍の倍以上の兵力で設楽が原に布陣して陣地構築を行う。これに対して武田軍内では一時撤退の意見も出たが、勝頼は自身の実績を示す必要があったこともあって決戦を選択する。
・連合軍は三段撃ちで武田軍を迎え撃ったとされるが、この三段とは三列の意味でなく、三つの部隊という意味だという。つまりは武田軍の攻撃が集中すると考えられる道沿いに鉄砲隊を重点配備し、三隊の鉄砲隊と弓矢で狙い撃ちをしたのだという。
・武田軍も決して鉄砲を軽視はしていなかったが、鉛や硝石の調達が困難であったために連合軍に比べて矢弾が乏しく、最終的には騎馬の突撃に頼らざるを得なくなったという。
・また武田軍は「場中の高名」といって激戦地での働きを重視する伝統があったため、兵が次々と激戦地に突入していき、これが兵力消耗を増やした原因ともなっているという。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・もっぱら「愚将」とされる勝頼ですが、これは江戸時代以降から言われるようになったことであり、当時の評価は決してそうではなかったとのこと。まあその通りでしょう。本当に勝頼が愚将なら、この大敗の後に武田家を7年も持たせることは出来なかったし(朝倉なんかは近江で敗北した後、そのまま信長に攻め込まれてあっという間に滅んでいる)、武田が攻めてくる前に家康と信長が甲斐に攻め込んでいたでしょう。最近の勝頼の評価は「不利な条件の中で必死に頑張っていたけど、残念ながらそれが叶わなかった人」というもの。

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