教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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8/30 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「信長を追い詰めた男! 朝倉義景」

評価の低い「あの人」の名誉回復のようです

 どうしてもここ一番で決断できないというところがあり、結果としては天下取りに関われなかったばかりか、信長にあっという間に滅ぼされたことから暗君のイメージが強く、歴史ファンからも「ナマ倉義景」と陰口を叩かれることも多い朝倉義景である。しかし昨年、麒麟関係でまずNHKが朝倉義景の名誉回復番組を放送したが、今回はこの番組がその路線で。

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越前を繁栄させて強国となるが

 まず朝倉氏であるが、そもそもは斯波氏の家臣であったのだが、義景から四代前の朝倉孝景の頃に越前を支配する戦国大名として自立、そして一乗谷に城下町を構える。義景の父である隆景の時代に最盛期を迎え、一乗谷は人口は1万人を越え、敦賀港を通じての大陸との交易などで潤っていた。恐らく戦国時代の最大最強の大名の一人だったとされる。父隆景の急死で16才で家督を継いだ義景は、将軍・義輝の義の字をもらって「義景」と名乗ることになったのだという。朝倉氏の屋敷は幕府の管領の細川氏のものにも匹敵するような規模であり、朝倉氏の栄華のほどが覗える。

 一乗谷は京にも劣らないような文化が栄え、多くの貴族も訪れた。越前を訪れた僧侶が「静かにて治まる国」と述べたという。しかし越前にも頭痛の種はあった。加賀を治めた一向一揆勢との争いである。義景は一向一揆と対立しながら領国を守ってきた。そのような義景であるが、中央の戦乱に巻き込まれることになる。京都で将軍足利義輝が三好一派に暗殺される。そして危険を感じた弟の義昭が義景を頼って逃げ延びてくる。

 義景は義昭を元服させる。ここで義昭は義景に上洛を依頼する。しかし義景はこれに対して応えようとはしなかった。その理由であるが、溺愛していた嫡男を失ったことによる失意とも言われているが、これ以外にもそもそも義景は一ノ谷に京を再現しようとしていたので、わざわざ荒廃した京に上る必要を感じなかったのではとしている。

 

信長が上洛したことで対立することとなる

 しびれを切らせた義昭が頼ったのが織田信長であった。上洛の機会を覗っていた信長はこれ幸いと上洛を果たす。これが義景のその後の運命を変えることとなる。

 上洛した信長は義昭を奉じて、全国の大名に上洛を要請する。その時にこの要請に応じなかったのが朝倉義景である。織田氏よりも家格が上である義景としては織田の下風に達輝はなかったのだろうという。これでは示しがつかないと信長は三万の兵を率いて越前に攻め込むと手筒山城、金ケ崎城を落とす。しかし義景は長年の誼を結んできている浅井氏が味方するという勝算があった。実際に浅井長政は信長を裏切って朝倉に付く。挟み撃ちになった信長は慌てて撤退する。義景はこれを追撃するが、信長の逃げ足は速く、逃亡に成功させてしまう(この思い切りの良い逃げ足の速さが信長の真骨頂でもある)。

 体勢を立て直すと、裏切った浅井氏に対して信長は家康と共に大軍で攻め寄せる。こうして織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で行われたのが姉川の戦いである。なおこの時に景勝は自らは出陣していない。これについては当時寵愛していた側室と離れるのが嫌で自らの出陣をやめたという。この軟弱さが義景らしいところでもある。

 この戦いは徳川軍の活躍によって織田方の大勝利とされているが、実際には朝倉氏も決定的な打撃を受けたというほどではなく、近年の研究では実際は引き分けに近かったのではないかという。とは言うものの、朝倉はともかく、浅井はこの時に配下の精鋭をかなり失っており、後々のことを考えると浅井氏には手痛い敗北だったと思うのだが。

 

信長に頭まで下げさせるが

 「三河物語」には「志賀の陣で信長が義景に頭を下げた」と伝えられているという。これが一体どういうことか。これは三好勢を信長が将軍と共に攻めていた時、本願寺が挙兵し、さらに朝倉・浅井軍が出陣した第一次信長包囲網の時だという。この時に義景は長年対立してきた一向一揆勢と手を結んでいる。これまでの敵とさえ、打倒信長のために手を組めるのは義景の柔軟性であると番組はしている。一向一揆勢と共に進軍した義景は宇佐山城で信長の弟の信治と織田家重臣の森可成を討ち取っている。さらに織田軍の物資輸送の拠点である堅田を攻略して、京に進軍する。京を落とされるのを防ぐために急遽帰還した信長に対し、義景は延暦寺に陣を構える。天然の要害である延暦寺に信長は手を焼き、睨み合いは3ヶ月続いたという。万策尽きた信長は将軍と正親町天皇を頼り、和睦を仲介してもらう。この際に信長が義景に頭を下げたのだという。さらに「天下は朝倉殿持ち給え、我は二度と望み無し」という書状を送ったという。まさに信長が義景に屈した瞬間であった。

 

結局は肝心な時に腰砕けになって滅亡してしまう

 とは言うものの、信長はそんなものは屁とは思わない男である。翌年になると信長は延暦寺に火を放つ。これで越前に攻めてくるのは確実と義景が警戒した時に、いよいよ甲斐の虎・武田信玄が反信長で動き始める。この時、足利義昭は信長と決別しており、第二次信長包囲網が結成される。信長は各個撃破するべく浅井の小谷城を攻撃する。ここで義景は浅井の援軍として出陣する。こうして睨み合いが続く中、ついに信玄が出陣するのだが、ここでなんと義景が撤退してしまう。これが後世にも「決定的な判断の誤り」とされ、ナマ倉義景と陰口を叩かれる最大の原因となったのだが、義景の撤退の理由は兵の疲労が溜まっていたのと、積雪で退路を断たれるのを恐れたからだとされる。さらには義景は常に正月を一乗谷で過ごしたいという思いがあったとのことなんだが・・・そりゃあまりにバカ倉義景だわ。

 この義景の撤退には武田信玄も「あいつは何を考えているんだ」と激怒したという。その後、武田信玄も亡くなってしまい、信長包囲網は完全崩壊する。そして将軍・義昭を京から追放すると、浅井・朝倉を滅ぼすべく浅井領に侵攻する。ここで義景は重臣で従兄弟の景鏡に援軍の出兵を要請するが、兵の疲れを理由に断られてしまう。そこでやむなく義景は自ら1万の兵を率いて援軍に出向くことになる。しかし近江に入った時には信長は3万の軍で小谷城を包囲して支城を次々と落としている状態だった。浅井と分断された義景は撤退を決意するが、そこで信長の猛烈な追撃をくらい、刀根坂で応戦するものの惨敗して義景は主力のほとんどを失って落ち延びることになる。そして義景は景鏡の助言にしたがって賢松寺に逃げ込むが、ここで景鏡の裏切りにあって自刃する。こうして朝倉氏は滅亡する。

 

 と言うわけで、確かに良い線は行っていたんだが、結局のところ「ここ一番でいつも決断できずに判断を誤っている」ということは否定できず、やっぱり所詮はどうコケてもやっぱりナマ倉義景だったという印象なのだが。

 恐らく「生まれた時代が悪かった」としか言いようがないだろう。戦国乱世でなく、もっと穏やかな時代だったら、無難に国を守って繁栄させた名君として名が残った可能性の高い人物だと思われる。天下を取り損なったと言うよりも、実際は「そもそも天下なんか取る気もなかった」というのが実態だろう。義景にしたら「一乗谷は繁栄しているし、なんでわざわざ京を支配なんて火中の栗を拾うようなことしないといけないの?」ってのが本音だったんだろう。ただ残念ながら、やるかやられるかの時代には義景の認識はあまりに甘かったと言うことになろう。

 

忙しい方のための今回の要点

・義景の治める越前一乗谷は経済的にも非常に繁栄しており、朝倉氏は当時最強の大名の一つであった。
・義昭が義景を頼ってきたが、結局は義昭の上洛要請に義景は従わなかった。これは義景にしたらわざわざ戦乱の京を抑えずとも、一乗谷に京を再現すれば良いという考えもあったのではとする。
・結局は義昭は信長を頼り、信長は義昭を奉じて上洛、各大名に上洛を要請するが、義景はそれに応じなかったことから、信長は越前攻めを行う。
・この時は浅井氏の寝返りで信長は撤退するが、その逃げ足の速さに逃してしまう。その後、第一次信長包囲網では義景は本願寺と和睦して信長を追い詰める。この時に信長は義景に頭を下げて講和したという。
・しかしその翌年、信長は延暦寺を焼き討ちする。これに対して信玄が信長包囲網に加わったことで第二次信長包囲網が結成されるが、その最中、義景は撤退してしまって信長包囲網は失敗、さらに信玄の死で包囲網は完全に崩壊する。
・その後、信長の浅井攻めに対し、義景は景鏡に出陣を要請するが、兵の疲労を理由に拒絶され、自らが出陣するも撤退に追い込まれる。その時に追撃で軍が壊滅し、逃走した義景も景鏡の裏切りで自刃に追い込まれる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・結局は最大限フォローしても「乱世でなければうまくやれたのでは」とか「暴君ではないんだよな」ぐらいしか言えないのがこの人物。どうにもこうにもここ一番で決断できない優柔不断さが垣間見えてしまう。この時代にはそれは致命的。優れた参謀もいなかったのかな。

次回のにっぽん!歴史鑑定

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