教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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9/26 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「信長 秀吉 家康は雲の上!最もダメな戦国武将は誰だ!?」

生涯に9度も居城を落城された戦国最弱武将

 戦国時代と言えば各地で有力武将がしのぎを削り、その中からいわゆる三英傑と呼ばれるような武将が台頭してくる。しかし中にはそんな天下を争う戦いからは蚊帳の外のダメ武将もいた。今回はそういうダメ武将の特集だという。

 まず最初は関東で何度も居城を奪われ、戦国最弱との呼び声もあるという「弱い方のオダさん」こと小田氏治。常陸国の小田城の城主だった小田氏治。小田家はそもそもは鎌倉殿の13人にも登場する八田知家を祖とするとされる名家だった。氏治は常陸国の北半分を治める佐竹義昭と同盟をして、西から侵攻してくる結城政勝と争っていた。さらに北条氏康や上杉謙信も関東を覗ってしのぎを削っている状態だった。

 そんな中、1556年に北条氏治と結んだ結城政勝が小田城の支城である海老ヶ島城へと攻め込んでくる。小田城から出陣した氏治は結城・北条連合軍とぬかるんだ田んぼを挟んで向き合うことになった。しかしここでどうしたものかと氏治が躊躇していたところに、結城・北条連合軍はぬかるんだ田んぼをものともせずに突撃をかけてくる。小田軍は総崩れになって敗走、小田城に戻ることもならずに家臣の土浦城に逃げ込むしかなく、居城の小田城は落城してしまう。氏治26才、人生で最初の落城であった。

 この後、氏治は小田城を取り戻したものの、今度は佐竹義昭に攻められて、2年の間に2回目も落城してしまうのだという。そもそも平地の館だった小田城は防御力が低く、最初に占領した結城氏も結局は放棄したらしい。

平城だった小田城

 

 

上杉と北条の間で翻弄される

 1559年には結城政勝とその息子が亡くなったことで、これがチャンスとばかりに結城城に攻め寄せる。城にはわずかな兵士かおらず優勢な戦い・・・のはずだったのだが、結城の援軍が到着して形勢が逆転、またもひたすら敗走する羽目になり、海老ヶ島城と北条城という支城まで奪われることになる。ちなみにこの後、謙信に泣きついて領土を取り戻したらしい。ただ落城の都度、何だかんだで城を取り戻しているので、常陸の不死鳥との評もあったりするという。

なぜか足許に猫がいたりするのがこの人物の分からないところ

 しかしこれで終わらない。氏治は謙信を裏切って北条氏康の配下についてしまい、激怒した謙信が攻め寄せて、真っ向から立ち向かったものの勝負にもならずにあえなく6度目の落城。それでも謙信の撤退後に城を奪還するも、今度は3ヶ月後に佐竹義昭に攻められて5度目の落城、しかしここで佐竹義昭が亡くなってその隙に城を奪還する。だが佐竹義昭の息子の義重が上杉謙信の指示で攻め込んできて6度目の落城となる。

 その後、氏治は謙信に降伏して小田城に戻るのだが、謙信と北条氏が同盟を結ぶというまさかの展開。今まで両者の間を渡り歩いて何とか勢力を保ってきた氏治はこれで孤立無援となる。するとそこに佐竹義重が攻め寄せてきて7度目の落城となる。

 

 

9度目の落城からはさすがに取り返せず

 しかしこの氏治、家臣には人望があったようで、家臣が兵を集めて奮戦して小田城を奪還したという。氏治は大晦日には宴会を開いて家臣をもてなしていたらしいが、その情報が佐竹義義重に漏れてしまったことで、宴会中に襲撃を受けてとうとう8度目の落城となる。この時は10日後に奪還するが、2ヶ月後にまたも落城で、結局は氏治は9度の落城を経験することになるという。

 今までは何度も小田城を奪還していた氏治だが、9度目の落城後は17年も小田城に戻れない日々を過ごすことになる。1590年、60才を迎えた氏治の前に現れた大きなチャンスが秀吉の小田原攻め。佐竹義重が小田原に参陣して留守の間に小田城に攻め上がる。当初は優勢に戦いを進めたものの、佐竹の援軍が駆けつけて奪還に失敗する。しかもこの行為が秀吉の逆鱗に触れて、氏治は領地を没収されて小田家は滅亡となってしまう。しかしこの時に氏治は秀吉に平身低頭して命だけは助けられたという。氏治の娘の一人が家康の次男の結城秀康の側室となっていたことから、氏治は秀康の客分として預けられることになったという。結局これが幸いして氏治は関ヶ原の合戦後も生き残り、加増となって越前に転封となった秀康と共に越前に移り、その翌年に71才で亡くなったという。

 以上、戦国最弱との呼び声も高い小田氏治が最初。とにかく強烈な人物で、七転八起というよりは七転八倒の生涯である。なおこの小田氏治は以前に「英雄たちの選択」でも紹介されている。

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人が良すぎて居城を奪われた超天然武将

 二人目のダメ武将だが、それは今川義元の弟の氏豊。どうやら脳天気というか、生き馬の目を抜くような戦国時代において、あり得ないほどのお人好しだったらしい。

 2~3才で尾張の今川那古野家に養子に出された氏豊は、今川氏の尾張の拠点である尾張那古野城の城主をしていた。しかしこの氏豊は連歌が非常に好きだったという。この氏豊の連歌仲間が勝幡城主で織田信長の父の信秀であった。尾張守護代の家臣であった信秀は、尾張侵攻を目指す今川氏にとっては敵のはずなんだが、氏豊はそんなことは意に介さずに10才年上の信秀を兄のように慕い、和歌をしたためた短冊を信秀の元に届けさせたりしていたという。

 そんなある日、氏豊の短冊を託された使者が誤って短冊を川に落としてしまう事件が起こる。氏豊は信秀に対して「勝幡と那古野が遠いのでこんなことが起こってしまったので、もしよろしければ十日ほど那古野にいらしてゆっくりと連歌を詠みませんか」と呼びかけたて、城の中に信秀の部屋まで用意したのだという。

 信秀がこの誘いに乗って那古野城に通うようになったことから二人はより親密になる。自分の部屋にいた信秀が本丸に向かって勝手に窓を開けたのだが、氏豊を矢で撃つためなのではと家臣は疑ったが、氏豊は全く疑う様子もなかったという。そして信秀が病に倒れ、心配する家臣が続々と那古野城下に大勢詰めるようになった。すると頃合いを諮っていた信秀は一斉に家臣に指示を出して、城下に火を放って本丸を攻撃、那古野城は完全に信秀に占拠されてしまう。あまりに人が良すぎて居城を奪われてしまうのである。しかし当の氏豊は「火事でも起きて騒いでいるのかと思った」とのことで、さすがの信秀も氏豊の命は奪わなかったという。

 

 

美少年好きが高じて命を失ったダメ武将

 最後は美少年好きが高じてとんでもないことになった蘆名盛隆。当時の大名は衆道という男同士の恋愛は結構あったが、どうもこの人物は度を超していたらしい。

 黒川城の城主であった蘆名盛隆は戦での武功もあり、外交交渉に長けた武将だったという。しかし衆道に関するエピソードが多い。佐竹義重との戦では義重が盛隆に一目惚れしてしまって合戦が中止になって和睦になったとか。

 さらに盛隆は蘆名氏重臣の13才の息子の松本太郎が気に入り、立派な武将になって手柄を上げるために初陣させて欲しいという太郎の希望に反して、戦の度に太郎を負傷させるのが嫌で留守居番を命じていたという。太郎はこれを不満に感じ、とうとう腹いせに別の武将と浮気、激怒した盛隆は太郎の屋敷を取り上げて家督を継ぐことを禁止してしまう。これに納得できなかった太郎が浮気相手と共に黒川城を占拠してしまうという事件が発生したという。

 しかしこれでこりないのが盛隆で、23才の時に大庭三左衛門という美形の小姓に夢中になる。しかし伊達との戦の帰途に見かけた美少年に心を奪われて連れて帰って小姓にする。これで三左衛門はお払い箱となったのみか、「御殿で出る今朝の雁汁など食べられようか」とまで言われたのだという。雁汁は冷めると肉が硬くなりマズくて食べられないことに喩え、お前への愛情は冷めたからもう不要と言ったのだという。これでぶち切れた三左衛門は盛隆に斬りつけて盛隆は斬殺されてしまう。結局盛隆のなき葦名氏は伊達政宗に滅ぼされてしまう。

 

 

 以上、ダメダメ三大武将。もっとも最初の小田氏治はついてないのに必死で頑張っていた人物という感じがあり、今川氏豊についてはこれはもう人が良いを通り越してかなりの馬鹿と言えるのだが、共に何となく憎めないところはある。しかし三人目の蘆名盛隆については、男色の激しさだけでなく、相手への態度を見ているとさすがにドン引きするところがあり、限りなく「自業自得」としか言いようがない。

 まあ他にも実際はダメダメ武将はいたんだろうが、ダメすぎて呆気なく滅ぼされたような連中はそもそも名前も残っていないだろうから、この連中は何か見るべきところがあったんだろう。小田氏治については9回落城したものの8回は取り戻しているし、領民や家臣にも慕われていたというから、統治者としては悪くはなかったのだろう。それにこの時代に71才の大往生を遂げているというのはそれなりにすごい。

 今川氏豊については、ここまで天然な人物が戦国時代に生き残ったというのはある意味での驚異。もっともこのボケっぷりは、何となく今川氏真を思わせるところがあり、ある種で今川の血筋なのかもしれないと思ったり。義元は家督を継ぐ時に競争相手である兄弟を蹴散らしたのだが、氏豊についてはここまで天然だったから、逆に義元に脅威とみなされなかったのかもしれない。

 蘆名盛隆はどうも人間的にはあれであるが、その生涯を見たら戦は結構強かったんだろう。だから一応名が残ったのだろう。男色好きすぎるのがある意味で致命傷となってしまったが、女の方はどうだったんだろうか? この時代は結構両刀遣いが多かったようだから。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・戦国時代のダメダメ武将三人を上げている。
・小田氏治は居城である小田城を9度も奪われた戦国最弱との呼び声も高い武将。ただしその度にどうにか奪回はしている。もっとも最後は秀吉の小田原攻めに乗じて居城の奪還に乗り出すが、そこで敗北した上に秀吉の逆鱗に触れて所領召し上げで小田氏は滅亡してしまう。
・しかし本人は秀吉に謝罪して命は助けられ、結城秀康の客分として71才で大往生を遂げている。
・今川氏豊は連歌好きで異常に人が良かった(というか天然)人物。敵対しているはずの織田信秀を慕って、連歌に誘って城内に部屋まで設けた結果、信秀に居城を乗っ取られることになってしまう。しかしさすがの信秀も氏豊の命は助けたとか。
・最後は男色のひどすぎた蘆名盛隆。彼は何度か男色でトラブルを起こした挙げ句、最後は一方的に捨てた愛人によって殺害されてしまった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあダメダメ武将なんて実はいくらでもいたと思います。それに三英傑にしても、信長は家臣の恨みを買って最後は謀反を起こされたダメダメ主君ですし、秀吉にしてもその晩年は自ら豊臣家の命運を縮めた大老害になってますから。

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