教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

2/27 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「日本初!アメリカに渡った少女 津田梅子の生涯」

日本初の女子留学生として渡米

 今回の主人公は新紙幣に選ばれたと言うことで何かと扱いの増えている津田梅子。もっともこの手の番組で今まで何度か取り上げられているので、正直なところ今更新しい話はほとんどない。

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 まず彼女の生涯を見た時に、日本初の女子留学生としてアメリカに渡ったところから始まるのであるが、それは6才の時である。女子留学生の構想は黒田清隆から出たらしいが、渡米した時に社会で活躍している女性達を見て、日本の女子教育の必要性を考えて、女子留学生派遣を訴えたのだという。ただ最初の応募には10年と留学期間が長いこともあって応募者はなく、再度の募集でようやく5人が集まったという。梅子の父である仙は渡米経験があることから娘にアメリカで教育を受けさせたいと思って娘に提案したら、妹の梅子の方が希望したのだとか。

津田梅子

 渡米した梅子はカルチャーショックを受けることになる。それは5人とも同じで最年長の2人は1年も経たずに体調を崩して帰国することとなった。梅子はランマン夫妻の元にホームステイしていた。この夫妻は教養が高く、さらに梅子を養女のように育てたという。梅子は私立の女学校に入学して語学や理系教科を学ぶ。そして留学期間を1年延長して女学校を終えて帰国する。

 

 

帰国したものの活躍の場がない

 1882年、梅子は日本に帰国するが、実はカルチャーショックは帰国してからの方が大きかったという。また帰国した梅子には働く場は全くなかった。まず日本語がほとんど分からなくなっていた上に、未だに良妻賢母イメージしか持っていない政府は、女子留学生に対して仕事の用意をしていなかったという。梅子は留学仲間の永井繁子に日本語を習うことになって言語は少しずつ戻ったが、習慣の違いなどの文化ギャップは多く、孤独感に苛まれていたという。「移植された木」みたいだとランマン夫妻への手紙で書いている。

 悩んだ梅子は捨松らと話ながら女子教育の夢を見つけることになる。ただ捨松の結婚には衝撃を受けたという。もっとも彼女自身は結婚の意思は持っていなかったという。

 梅子の境遇を救ったのは伊藤博文だったという。梅子の働き先がないことを聴いた伊藤は妻の通訳及び娘の家庭教師を依頼する。さらに桃夭女塾の英語教師の職も得る。そして1885年、新設された華族女学校の教授補に就任して破格の給与を得ることが出来る。しかし華族女学校は所詮は良妻賢母教育を目指すものであり、それは彼女にとっては大いに不満のあるものであったという。そして再び留学したいという希望を持つことになる。

 

 

再び渡米して理想の女子教育の場のために動き始める

 梅子は華族女学校在籍のままプリンマー大学に留学することになる。ここで女性教育に力を入れていたトマス博士と出会ってリベラルアーツ教育という考え方を学び、彼女は女性には困難とされていた理系学問にあえて挑戦する。そして女子教育の理想を抱いて帰国する。帰国して復職した彼女は、女学校の設立に向けて諸外国から寄付を集めるために活動を開始する。1899年にイギリスでナイチンゲールに会った梅子は「応援する」という言葉を得る。そして帰国して華族女学校の教授を辞任すると女学校設立に動き始める。

 資金調達のために梅子は恩師のトマス博士を通じて海外の募金を呼びかけてもらう。学長だったトマス博士の影響力は絶大で1年ほどで現在の価値で3億円の寄付が集まる。これで梅子は1900年に女子英学塾を開校する。顧問は大山捨松。生徒・職員合わせて17人という小さな学校だが、高い理念をもった学校であった。生徒は寮生活で学業に専念できたが、指導は厳しく落伍する生徒もいたという。

 1904年、女子英学塾は専門学校として認可される。翌年、その高い教育内容が評価され、卒業生は教員試験なしに教員免許が与えられることとなる。1915年、梅子は60歳で勲六等宝冠章を受賞、しかしその2年後に体調崩して学校を後継者に託して辞任すると、64歳でこの世を去る。

 

 

 以上、津田梅子の生涯ですが結構あっさりした紹介でこれといって新しい話はないですね。以前に「英雄たちの選択」でやっていた「梅子は実はリケジョだった」というのは驚きでしたが、要するにそれはリベラルアーツ教育というものの一環だったわけか。

 かくしてこのように女子教育に力を入れた梅子だったが、その努力があの戦争でグチャグチャになっちゃうんですよね・・・。つくづくこの国って差別が大好きだから。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・津田梅子は6歳で女子留学生として渡米、11年の留学を経て帰国する。
・しかし帰国した梅子は日本語が話せなくなっていた上に、政府は女子留学生の働き口を全く考えていなかったために活躍の場がないまま鬱々とした日々を過ごす。
・伊藤博文の紹介でようやく英語教師の職を得た梅子は、新設された華族女学校の教授補に就任するが、良妻賢母教育を目指す華族女学校には大いに不満を抱き、再び留学したいという希望が強くなる。
・梅子は再び渡米してプリンマー大学に留学、そこで学長のトマス博士のリベラルアーツ教育の考えに触れ、理想の女子教育の姿をイメージする。
・帰国した梅子は華族女学校の職を辞して自身の女学校設立に動き始める。海外から寄付を募るが、トマス博士の協力で寄付金を集めることに成功して1900年に女子英学塾を設立する。
・女子英学塾は専門学校に認可され、高い教育内容は評価される。
・梅子は62歳で体調を崩し女学校は後任に託して辞任、64歳でこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ津田梅子の生涯を見ていると、この国において女性差別がどれだけキツかったかということが良く分かります。なおイスラム圏なんかには未だに女子に教育はするべきではないなどという差別的な輩が多いですが。

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