アメリカ留学を生かせずに苦しんだ津田梅子
津田塾大の創始者で、女子高等教育に貢献したとして知られる津田梅子だが、実は彼女自身は女子教育と自身の研究者としての夢との狭間で葛藤を抱えていたという話。
そもそも彼女がアメリカに留学したのは6才の時だった。これには父の意向があったようだが、彼女自身も高い目的意識を持って渡米したという。梅子はジョージ・タウンで日本領事館の書記官だったランマン家に預けられる。夫妻は梅子を実の子同様に厳しく育て、地元の小学校を卒業すると私立の女学校に進む。そこで彼女は天文学、数学などの理系科目を多く学ぶ。実は彼女はリケジョだったらしい。17才で女学校を優秀な成績で卒業すると帰国する。彼女は共に留学した捨松と共に日本の女子教育に貢献することを誓い合う。
しかし帰国した梅子には厳しい現実が待っていた。官職などが用意されていた男子留学生と違い、梅子ら女子留学生にはそのような職は用意されていなかった。また梅子は6才で留学したために、英語は堪能であったものの日本語はほとんど忘れてしまっていた。日常会話にも事欠き、孤独感に苛まれることになる。さらに1年後、捨松が結婚したという報に衝撃を受ける。
華族女学校で直面した現実に再度の留学を希望する
悶悶とする梅子に訪れた転機は、1885年に華族の女子のための華族女学校が開校したことだった。梅子は英語教師として採用される。帰国から3年、20歳になった梅子はようやく女子教育の現場にたどり着いたのである。しかし華族女学校の現状は梅子が期待しているものとは大きく違っていた。生徒達は自ら積極的に発言することはなく、自立した女性を育てる目指す梅子には大きく落胆させるものである。所詮は華族女学校の教育方針は良妻賢母教育であった。梅子の前に立ちはだかる壁は大きかった。
華族女学校に勤めるようになってしばらくしてから、彼女はランマン夫人に対してアメリカでさらに1~2年純粋に学問を修めたいという希望を伝えている。同僚のアリス・ベーコンも梅子のこの考えを後押しする。決意した梅子は3年間勤務した女学校に対して辞職願を提出する。しかし女学校はそれを認めずに在職のまま留学とする。女学校在職のまま官費留学を認めるという異例の措置であった。
24才で再びアメリカに留学した梅子は先進的な女子大学であるブリンマー大学で生物学を中心に学ぶ。梅子は当時最先端の生物学に傾倒するが、実はこれは「教授法を学ぶため」として留学を許可した華族女学校の方針に反することであった。当時の日本では女子が高尚な学問を学ぶのは良妻賢母を目指すべき華族の女子には相応しくないと考えられていた。
当時はアメリカでさえ女性が科学の分野で一人前の研究者となることは難しかったという。1年目で生物学の基礎を学んで、2年目で解剖なども経験した梅子は優秀な成績を修めており、大学も彼女の能力に目をつけていた。そして2年が経った時、彼女は女学校に留学の1年延長を願い出る。後1年あれば大学を卒業でき、帰国後の女学校の教育にも大いに関係すると記してのものだった。これに対して女学校は女子教育の調査という名目で延長を許可する。梅子はさらに高度な研究に没頭する。
研究者の道を進むか帰国するかの選択
梅子は後にノーベル賞を受賞するトーマス・ハント・モーガンの特別研究を受講することになる。モーガンは最先端の実験発生学の研究を行っていた。梅子はアカガエルの卵を観察して細胞分裂の過程を細かく記録する。このレポートは後にモーガンによってイギリスの学術誌に共著論文として発表される。梅子は生物学に熱中するが留学期限は近づいていた。大学やモーガンから研究を続けるようにと勧められる。ここで梅子の選択である。このまま大学に残って研究を続けるか、それとも日本に戻って女子教育に貢献するか。
番組ゲストは全員一致で帰国やむなしだったが、実際にここで梅子にとって大学に残ることは無理だったろう。当時のアメリカでも女性が一人前の研究者として認められるということは大変だったが、それ以上にここで帰国しなかったらあちこちに義理が立たないということもあったろうと思われる。女学校は明らかに特例で彼女の留学を認めており、それは多分女学校の上層部に彼女のことを理解して計らってくれた人物がいると推測できる。大学に残ってしまったら裏切ることになってしまうので、それは難しいのではと思われる。
帰国した梅子は復職して教壇に立つ。しかしこの時には自らが新たな女子高等教育機関を設立するという決意を固めていた。その梅子を捨松やアリス・ベーコンが支援する。梅子は奔走する一方で密かに生物学の研究は続けていたという。設立する女子校冬期間には女子が科学を学べる環境を整備することも考えていたという。しかし1900年にようやく設立した女子英学塾は予算の関係や女子研究者の需要がまだないことなどもあって英語教育に重点を置いたものであった。
梅子はこれらを後進に託すつもりだった。実は梅子はアメリカで日本人女性のための奨学金制度を設立していたという。これを使ってブリンマー大学で学んだのが星野あいで、帰国後女子英学塾の教師となった彼女を梅子は後継者にする。梅子の後を継いで英学塾の経営に邁進する星野だが、英語が敵性語として禁止された時に数学科・物理学科を創設して科学教育を導入することになり、戦後にこの分野で女性が活躍する基礎となったという。
以上、津田梅子について。彼女は英語教育に力を入れたというイメージから、まさかリケジョだとは思ってもいませんでした。これは初めて知った。彼女のあの筋の通った行動力は、アメリカ帰りだからという言うだけでなく理系特有の合理精神もあったのかと妙に納得。
さてここで彼女が大学に残っていたらだが、確かに日本初の海外で認められた女性研究者となり、その分野でも開拓者となった可能性はある。ただ科学史に残るような大きな研究をしたかは分からない。しかし彼女が何か研究で実績を上げたとしたら、場合によっては北里柴三郎や野口英世に先んじることになるかもしれず、そうなっていたらなっていたで面白かったなと言う気はする。当時は濃厚に残っていた男尊女卑の気風に痛恨の一撃になったかも。
忙しい方のための今回の要点
・津田梅子は6才でアメリカに留学して高等教育を受けて帰国する。しかし男子留学生と違って女子留学生にはポストは用意されていなかった。
・1885年に華族女学校が設立されて、梅子は英語の教師として採用される。女子高等教育に力を尽くすことを誓っていた梅子だが、自立できる女性の育成を目指していた彼女にとって、良妻賢母教育を目的としていた華族女学校の方針は落胆させるものだった。
・自身が高等専門教育を受けたいという願望を抱いた梅子は、3年後に辞表を提出してアメリカ留学を希望する。女学校は彼女を在籍のままで送り出す。
・ブリンマー大学で生物学を学んだ梅子は、優秀な成績を修め、さらに1年の留学期間の延長を願い出て認められる。そこで後にノーベル賞を受賞するモーガンの元で、発生生物学の研究を行って共著論文が投稿される。
・しかし留学期間が終了する。大学は梅子に研究を継続することを勧める。しかし梅子は女子教育のために帰国することを選ぶ。
・帰国した梅子は女学校の教壇に立ちながら、自身で女子高等教育機関を設立することを志す。捨松やアリス・ベーコンの支援も得て、梅子は1900年に女子英学塾を設立する。
・当初は科学も学べる施設にするつもりだったが、予算の関係や当時の日本で女性研究者のニーズがなかったことなどから、英語を中心のカリキュラムとして、科学教育は後進に託すことにした。
・後に梅子がアメリカで設立した奨学金で留学した星野あいが帰国、梅子の後継者として英学塾を切り盛りすることになる。そして英語が敵性語として禁止された時代に、英学塾に女子の理系教育が導入されることになる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・津田梅子が研究者志望だったとは意外だったな・・・。正直なところ、そういう目で見たことなかったわ。今回のは驚いた。
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