教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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7/25 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「伊達政宗 毒殺未遂事件の真相」

伊達政宗毒殺未遂事件は本当にあったのか?

 今回は伊達政宗毒殺未遂事件の真相について。これは小田原参陣に臨もうとしていた伊達政宗を母親の義姫が毒を持って殺害しようとしたとされる事件。背景には義姫が政宗の弟の小次郎を偏愛しており、小次郎を当主にするために邪魔な政宗を殺害しようとしたとされている。しかしこの通説が実は嘘だったというものである。ちなみに全く同じネタはかなり以前に「歴史科学捜査班」で放送されている。この番組の作り自体はひどいものだったが、中身自体は私は面白いと評価した回。なお全く同じ内容になるのは当然で、この時に登場した元仙台市博物館館長の佐藤憲一氏というのが、今回の「伊達政宗研究家の佐藤氏」その人である。つまりは彼がたどり着いた説と言うこと。

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毒殺未遂は政宗と義姫の狂言で、小次郎も生きていた

 佐藤氏が唱える説は、実は毒殺事件は起こっておらず、これは政宗と義姫の申し合わせての狂言だったというもの。その理由であるが、まず毒殺に関しての不審な点。政宗は義姫から出された料理を食べてすぐに腹が痛くなって苦しみだし、家臣に黒川城まで背負って運ばれて、そこで解毒剤を処方されて助かったとなっている。しかし当時の毒でそんなに即効性の毒は思い当たらない上に、それだけの猛毒だったとしたらとても徒歩で20分もかかる城まで運んで助かるはずもないというものである。

 また義姫は事件の直後に最上家に逃げ帰ったとされているのだが、虎哉和尚の残された手紙によると義姫が最上家に戻ったのは事件の4年後だという。そしてその間、政宗は義姫と手紙のやりとりをしており、そこには愛情が籠もっていて殺されかけたという憎しみは垣間見えないのだという。これらから毒殺未遂事件は狂言だったというのである。毒殺未遂事件は伊達家の正史に残っているのだが、それは政宗が広げた噂が残ったものだという。

 そして事件の直後に政宗によって殺害されたとされる小次郎が実は生存していたのだという。武蔵国の大悲願寺の過去帳に「秀雄という住職が政宗の弟」だという記述があったのだという。また白萩文書という政宗が当時の住職に宛てた手紙の裏書きに秀雄が政宗の弟であると記述されているのだという。小次郎は政宗に殺されたとされる年から52年も生きていたことになるという。

 

 

家中の分裂を防ぐための策だった

 ではなぜ政宗と義姫がこのような狂言をする必要があったかだが、それは伊達家の分裂を防ぐためだったという。当時の伊達家中では政宗派と小次郎擁立派が対立しており、自分が小田原に行っている間に小次郎擁立派が最上義光と手を組む可能性を恐れていたという。それを回避するために小次郎を殺したことにしようとしたというのである。なお義姫と政宗には確執があったとされているのだが、佐藤氏の考えではこれはかなりの部分は政宗の思い込みであり、それは義姫と腹を割って話し合ったことでわだかまりが解けたのではという。

 さらに秀吉の脅威も影響している。秀吉の惣無事令を無視していた政宗は、小田原の北条攻めへの参陣を求められたがこれを無視していた。しかし北条の劣勢を聞いた政宗の考えは揺らぎ始める。家臣は恭順派と主戦派に分裂したが、政宗は小十郎「ハエの大軍を2~300を叩きつぶして2度3度は退けることが出来たとしても、後から押し寄せるハエの群れはとても撃退ではない」との言葉に秀吉に降ることを決断する。しかし秀吉は激怒しているわけであるから、政宗の身に何が起こるか分からない。当時の政宗には後継となる子がいないので、ここで小十郎を殺害してしまったらもしもの時の伊達の当主がいなくなるのである。だから殺せるわけもなく、むしろ自分に何かがあった時のために小次郎を隠したのだという。

 政宗は秀吉との謁見に死に装束で臨んだという話があるが、これは後世の創作と考えられているという。政宗の家臣への手紙では、関白様直々の手厚いもてなしを受けて感激したと伝えているという。秀吉は度量の大きさを示して政宗を取り込もうとしたのだろうという。その後北条氏は降伏し、伊達家は減封になったものの存続する。また政宗に実子も生まれたことで小次郎が還俗する必要もなくなって、小次郎はそのまま生涯を終えたのではという。

 

 

 以上、伊達政宗毒殺未遂事件の真相(?)について。確かにあの件については、私も「おいおい、ここで弟を殺してしまったら、もしお前が秀吉に殺害されたら伊達家はどうなるんだ?」との疑問は持ってましたので、あり得る話ではあると思います。なお政宗と義姫の不仲についてですが、番組では政宗が疱瘡になった時に義姫が見舞いに来なかったことで政宗が母親に愛されていないとすねたという類いの事を言っていましたが、私はそれよりも輝宗の最後について政宗が輝宗を見殺しにしたとか、意図的に殺害したと義姫が不審に思った可能性の方がないかと思いますね。政宗と義姫が腹を割って話し合ったらわだかまりは氷解ってのは、あまりに美しすぎて嘘っぽいですが。ただ「伊達家存続のために」という点で考えが一致した可能性はあります。

 気になる点があるとしたら、大悲願寺の過去帳などの資料の信憑性がどの程度かというところでしょうか。歴史においては資料の信憑性ってのは非常に大事ですので。それでなくても怪文書の類いに立脚したトンデモ歴史を語る輩は今でもいますから。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・伊達政宗が母の義姫に毒殺されかかったという事件について、実は政宗と義姫が共謀しての狂言だったという説が浮上している。
・そもそも政宗は食事をしてすぐに激しい腹痛を訴えており、それだけ強力な毒だったら、城に運んで解毒剤を処方していたら手遅れになるのではないかという。
・また虎哉和尚の手紙から、義姫が最上家に逃れたのは事件後ではなく4年が経ってからであるという。
・さらに政宗が殺害したという弟の小次郎が大悲願寺で住職・秀雄として生存していたという可能性が出て来ている。
・政宗と義姫が狂言を行った理由は、政宗が小田原に参陣した時に、小次郎擁立派が最上義光と手を組んで叛逆するのを警戒したのではと言う。
・小田原で秀吉と対面した政宗は死に装束だったという話があるが、これは後世の創作であり、実際は秀吉が政宗を引き入れるために関白としての度量の大きさを示したという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ歴史において「あの事件の真相は・・・」という話はいろいろいくらでも出てきます。この説に関してもこれが主流となるかどうかは今後の研究次第でしょう。

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