教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

7/13 BSプレミアム 英雄たちの選択「家臣団分裂!若き家康・最大の試練~三河一向一揆の衝撃~」

家康生涯最大の危機「三河一向一揆」

 今回のテーマは家康人生最大の危機だったかもと言われているにもかかわらず、歴史的資料がほとんどなく、謎が多いとされる三河一向一揆について。

 そもそもこの三河一向一揆であるが、これは今川義元が桶狭間の合戦で亡くなり、一時は敵中孤立で切腹さえ考えたという家康が、信長と同盟することで独立大名として自立するという旗揚げの時に起こっている。

 家康としては当然ながら今川の脅威に対抗する必要があるので、まずは最重要項目は三河を統一して支配下に押さえることであった。でないと、三河は今川や武田の刈り場になってしまう恐れがあった。

 しかしここで家康は今川との対決の体制を固めるために、三河を治めるもう一つの勢力と敵対してしまうことになる。それが一向宗勢力であった。一向宗勢力が家康に公然と反旗を翻すきっかけとなった事件は、それまで不入の権で税の免除が認められていた寺院から家康の配下が兵糧米を徴収したことであった。

 

 

武装していた上に、家臣の多くも門徒であり家臣団が分裂する

 当時一向宗門徒は家康の家臣にも多く、また当時の一向宗の寺院は強固な堀や土塁で集落ごとを取り囲んだ堅固な要塞と化しており、立地も流通の拠点を押さえており、しかも集落内には商人や職人なども居住していたので、軍事力でも経済力でもむしろ家康の岡崎城よりも強いのではないかという状況だったという。また信仰で結びついた門徒達の結束は強固であった。

 家康は家臣達に対して、一向宗から改宗して自分に従うことを求めたが、家臣達はこれに対して「君主の恩は現世のみ、しかし阿弥陀如来の大恩は未来永劫尽きることはない」と拒絶する。こうして家康の家臣は一向宗側に付く者と家康に付く者とに割れる。後に家康の懐刀となる本多正信なども、この時は一向宗側に付いたという。1563年12月、ついに一向宗門徒が放棄して堅固な寺院に籠城して反家康の兵を挙げる。その兵の数は家康側を上回っていた。

 翌年1月11日、一揆勢は岡崎城南の上和田城に攻めかかる。家康は直ちに出陣して一揆勢に突入するが、銃弾2発を浴びたという。幸いにして鎧が硬かったおかげで命拾いしたというが危機一髪である。翌日も激戦が続いたが、一揆勢の武士の中には家康の姿が見えると逃げ出す者も多かったという。彼らも苦悩を抱えて戦っていたのである。

 そして1月15日、小豆坂で最大の激戦が行われる。小豆坂で家康の別働隊を攻めていた一揆勢に対して、家康勢は小豆坂を一気に駆け上って側面から攻撃をかけてこれを撤退に追い込む。家康は激戦を制する。そして2月になって一揆勢側から和議の申し立てがあり、一応家康はこれを受け入れる。

 

 

一旦は一揆勢を許すが・・・

 さてここで家康の決断である。一揆勢を許すか、それとも厳罰に処するか。だが厳罰に処した場合には多くの者が離反して逃亡する可能性や、再度の蜂起の可能性もある。これに対してゲストの判断は二分されたが、舐められては統制が効かなくなるという「許さない」という意見と、今川という敵と戦う前に内部で揉めている場合でないと「許す」という意見であった。

 ここで家康の判断は「許す」であった。一揆勢側からの首謀者などの命を保証することと、不入の権を認めるということが条件であった。これに対して家康はこれらのすべての条件を受け入れて起請文を交わす。一揆に加わった武士たちは許されたものの、多くが家康の元を去って三河を離れる。しかし実は家康はこれを待っていたのだという。

 2ヶ月後、家康は寺院に対して宗旨を変えることを迫る。寺側は「前々之ごとく」と起請文を交わしたと反論する。しかし家康は「寺が建つ前は野原だったのだから、前々というなら野原にせよ」と多くの寺を破却してしまう。寺院を失った僧侶は三河から去るしかなくなり、こうして以降の三河では20年に渡って一向宗の活動が禁止される。こうして西三河を制圧した家康は、その勢いで東三河、奥三河と三河を統一する。

 

 

 はい、さすがのタヌキぶりです。若い頃から既に後の古狸の片鱗が現れています。要は一旦は許したんだが、結果としては寺院が軍事的に抵抗できなくなってから、屁理屈で徹底的に寺院を弾圧したということです。あの大坂の陣の時の難癖に騙しを連想させます。目的のためには手段を選ばないという悪辣さですが、だからこそ天下を統一することが出来たというわけで、これは評価の分かれるところです。まあ個人的には絶対に友達にはなれないタイプですが(笑)。

 結局、ここで家康が三河における一向宗を徹底的に叩きつぶしたことで、後に本願寺が三河の門徒に蜂起を促しても、中核になる寺院がなくなっていたことで完全に不発になってしまったというから、確かに先の展開を睨んでの悪辣さでもあったわけであり、この辺りは家康侮り難しというところでもある。

 なおこれだけの家康の危機にも関わらず、あまりに記録が残っていない(特に本願寺側に皆無だという)ことについて、中央の指示でなくて地方の寺院で偶発的に発生した騒動だったからだろうと番組では解説していたが、確かに不入の権を回復できたらあっさりと引き下がっているところなどそういうものだったのだろう。まあ寺院側の計算違いは相手の家康は想像以上の古狸であったということである。まだ家康も若き君主だったし、まさかそこまで悪辣な手を使うことはなかろうと高を括ったか。結局は信長にしても秀吉にしても、天下統一なんてやるやつは悪党でないと無理なのかなんて気もするのが事実。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・今川義元が桶狭間で討ち取られ、今川氏からの自立を目指して三河統一に乗り出した家康の前に立ちはだかったのが一向宗勢力であった。
・対立のキッカケは家康が不入の権で免税されていた一向宗の寺院から兵糧米を取り立てたこと。家康の家臣の多くも一向宗側についたことで家臣団が分裂することになる。
・一向宗門徒は強固に武装した寺院に立て籠もって反家康の兵を上げ、岡崎城南の上和田城を巡って家康勢と一揆勢の激闘が繰り広げられることになる。
・その中で家康が銃弾を浴びる(鎧のおかげで命拾いしている)などもあったが、小豆坂の激戦を制した家康側が一揆勢を退け、一揆勢から講和の提案がある。
・家康は一揆勢を許し、首謀者などの命を保証した上で不入の権も認めて起請文を交わす。しかし一揆勢の多くの武士は三河を離れる。
・それを窺っていいた家康は、2ヶ月後一向宗寺院に宗旨の変更を要求、起請文を盾に抵抗する寺院を強引に破却してしまう。寺院を失った僧侶達は三河を離れるしかなく、こうして三河の一向宗勢力は壊滅する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・正直なところ「家康って悪党だよな」って感想しかないですね(笑)。まあ当時の宗教勢力なんて、悪党でないと叩きつぶすことなんか不可能でしょうけど。なで斬りにした信長よりはマシか。

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