教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

11/16 BSプレミアム ザ・プロファイラー「地球の円周を測りたかった男 伊能忠敬」

伊能忠敬の生涯

 今回のテーマは伊能忠敬。しかし有名な人物だけに今までNHKの様々な歴史系番組で扱われており、ネタは既にほぼ尽きている感がある。実際に以下の番組参照したら、今回の内もほぼ網羅出来るので、大雑把な解説だけに留めておく。

tv.ksagi.work

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元々は地球の円周求めるために測量の旅に出た

 伊能忠敬は千葉の小関村で生まれた。子供の頃から学問の才を示して特に算術に興味を示すが、13才で水運の町の佐原村の商家の伊能家に婿入りしたことで商売に専念することを余儀なくされる。忠敬はここで商売の免許を得られるかどうかの窮地に、蔵から4代前の当主が残した詳細な記録に助けられたことから、記録の大切さを痛感して様々なことを記録に残すようになったという。またこれらの記録のほとんどは当主が引退後にまとめたことを知って、これが後の忠敬の行動に結びついたという。忠敬は蔵の資料から天文学などについて学んだという。また佐原村の名主になり、天明の大飢饉でも蔵の米を配ることで打ち壊しや餓死者を出さずに切り抜けた。忠敬は49才までの20年で伊能家の年収を3.6倍にするなど商才を発揮した。

伊能忠敬

 そして49才で息子に家督を譲って隠居、勉強するために江戸に向かう。そこで幕府の天文台の門を叩き、天文方の高橋至時に弟子入りする。至時は忠敬よりも19才も若かったが、当時随一の天文学者であった至時から忠敬は様々な知識を吸収する。なお忠敬が地図作成の旅に出たのは、本当の目的は地球の円周を求めることにあったが、正確にそれを求めるには江戸から蝦夷地まで距離を測る必要があると言うことで、蝦夷地に行く許可を得るための口実が地図作成だったのだという。蝦夷地防衛のために地図の必要性を感じていた幕府の許可を得て、忠敬は身内など6人で旅に繰り出す。なお幕府としてはお試しという扱いで、手当は1日辺り現在の価値でたったの19000円。6人分の旅費がその程度で足りるわけもなく、忠敬は1200万円ほどの自腹を切ったのだという。

 

 

測量を行ったが精度に満足出来ず、さらなる測量の旅へ

 距離測定は歩測で行い、精度を補うために夜には天体観測をするので、忠敬は隊員に飲酒を禁じたという。忠敬はかなり細かく真面目な性格であり、結構大変な人であったようだ。一行は蝦夷地にまで到着するが、そこでの測量は難航を極め、挙げ句に冬の到来で蝦夷地の地図は南部の海岸線に限られることになる。それでも幕府はその精密さに満足したという。

 ただ当初の目的である地球の周囲の長さの測定については、歩測の精度に疑問があるということで忠敬も満足していなかったという。そこで次の測量からは間縄という目盛り付きの縄や鉄の棒を連ねた鉄鎖を用いられた。そうして緯度1度の距離を約111キロと計測したが、至時はこの数値が少し大きいと納得せず、忠敬は自分の測量結果を疑うのなら今後測量はしないと怒り、至時がそれをなだめるということがあったらしい。

 そして第4次の測量では真面目な忠敬は糸魚川で現地の役人のいい加減な情報に激怒、厳しく叱りつけたことで問題となり(忠敬は平民であるのに、武士である役人を叱りつけたことが原因と思われる)、役人から藩主に報告され幕府にも忠敬に対する苦情が入ったという。このままでは測量が中止になりかねないと至時は忠敬をなだめ、さらには幕府に対しても掛け合うなど奔走した。測量から帰還した忠敬は、至時が幕府に購入したもらった最先端の天文書を翻訳したところ、地球の円周の計算方法が記載されており、それを計算すると忠敬の数値と見事に一致したという報を受ける。現在の数値と比べても誤差は0.1%だという。子弟は大いに喜び合う。しかしこの後、至時が無理が祟って39才の若さで亡くなってしまう。

 

 

幕府直轄事業に昇格するが、それがまた新たなトラブルを招く

 忠敬の地図は将軍家斉に披露され、その精度に感心した幕府によってついに忠敬の地図作成は幕府直轄の事業となり、西日本の地図の作成も命じられることになった。しかし幕府直轄事業になって幕府の役人なども参加して測量のメンバーが20人ほどに増えたことでトラブルが起こることになったという。それは元々の忠敬の弟子たちよりも、後から加わった幕府の役人の方が、技術はないのに手当などの待遇が良かったことなどで弟子たちの不満が高まる。また意識も命じられた仕事として取り組んでいる役人達は低かった。その結果両者は対立、弟子たちは禁止されている酒を飲んで羽目を外したりと素行が悪くなっていく。結局忠敬は弟子の2人を破門せざるを得なくなる。忠敬としては隊を守るために「泣いて馬謖を斬った」のである。以降、忠敬は人選に目を光らせたという(怠け者や余計なことをする者は特に避けた)。しかし忠敬も老いには勝てず、地図作成の途中で73才でこの世を去る。なお忠敬が測量出来ていなかった蝦夷地については、間宮林蔵に測量を託して彼の測量データに基づいて地図が製作されたという。弟子や役人達の努力によって地図が完成したのは忠敬の死の3年後であった。


 以上、伊能忠敬について。この番組らしいのは忠敬の人間性に焦点を当てていることである。まあ真面目な人だろうというのは想像ついたが、かなり頑固で扱いにくい人でもあったようである。そのような人でないとこんな細かい作業を完徹することは到底無理だったろう。例えば私のようないい加減な人物が担当したら、多分一周した海岸線が全くつながらないってことになるのが予想出来る(笑)。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・伊能忠敬が日本地図作成に取り組んだのは、隠居した後の53才になってからである。
・そもそもの目的は地球の円周を求めることで、そのために蝦夷に行く許可を幕府から得るための口実として地図作成をすることにしたのだった。
・しかし結果として蝦夷地南岸の正確な地図を作成し、幕府もその結果に満足する。
・しかし歩測による測量の精度に忠敬は満足しておらず、縄や鎖を使ったより正確な測量を行いながら第二次、第三次の測量に出かける。
・真面目な忠敬は測量先で怠慢な現地の役人を叱りつけてそれが問題となり、師匠の高橋至時が取りなしに奔走するようなこともあったという。
・しかし忠敬は地球の円周の測量に成功し、それは西洋の最先端の文献で証明される。しかしその結果を喜び合ったすぐ後に師匠の高橋至時が39才の若さで早逝する。
・忠敬の作った東日本の地図の精度に感心した幕府は、地図作成を幕府の直轄事業とすることにし、忠敬に西日本の地図の作成も命じる。
・しかし一行に幕府の役人が加わったことで、忠敬の弟子との間に軋轢が生じ、不満を溜めた弟子たちの素行が悪くなったことで、忠敬は弟子の2人を追放することを余儀なくされてしまい、以降は忠敬は人選に気を使うようになる。
・忠敬も年には勝てず、地図作成途中に73才で亡くなる。忠敬の測量データに、間宮林蔵の蝦夷地の測量データを加え、弟子と役人達が忠敬の死の3年後に地図を完成させる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・偉業を成し遂げる人物って多かれ少なかれ、どこか極端に尖ったところがあるものですが、伊能忠敬もそのような人物だったようで。非常に筋を通す人だったことが覗えます。