教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

1/25 BSプレミアム ザ・プロファイラー「女性の可能性をひらけ!教育者 津田梅子」

日本女子教育の祖である津田梅子

 今回の主人公は津田塾大学の創始者で、女性教育の祖である津田梅子。もっとも彼女は新紙幣に起用されることが決まったときから各番組で取り上げられており、正直なところ「何を今更」感は非常に強く、特に今回の番組内容にも驚くような新ネタはありません。

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大山捨松も既に紹介されています

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女子留学生として6才で渡米する

 津田梅子は岩倉使節団と共に6才でアメリカに渡ったのであるが、幼少から学習意欲の強い少女だったという。女子留学生が募集されたときに父の津田仙は娘を留学させようと考えたらしいが、8才の姉は断り、6才の梅子がそれに応じたという。結局女子留学生は5人が送られることとなった。

お札になった津田梅子

 梅子が見たアメリカは未だに男性社会ではあるが、女性の社会進出も始まり女子高等教育のための学校も出来ていた。5人は共同生活を始めるも、1年足らずで年長の2人が体調を崩して帰国したという。梅子達はそれぞれアメリカ人に引き取られて生活することになるが、梅子は2才年長の永井繁子や5才年長の山川捨松と頻繁に手紙を交わしていた

 ランマン夫妻に引き取られた梅子は英語を猛勉強する。教養豊かだったランマン夫妻は梅子のことを大切にしてくれ、梅子も好成績を収めたという。11年後、梅子は帰国することになる。その船の中で捨松から女子のための学校を作りたいと聞かされる。そして17才で帰国した梅子だが、すっかり日本語を忘れてしまっていたために意思疎通が出来ず、日本の風習にも馴染めなかった。梅子にとっては日本は完全に外国になってしまっていた(そりゃ梅子にしたら、日本で暮らした期間よりもアメリカで暮らした期間の方が長いんだから)。梅子は「移植された木のようで変な感じがする」と語っていたという。

 

 

日本で違和感を抱き続けた結果、再度渡米する

 学校創立の夢のために教師になりたかった梅子だが、当時の日本では女性の働き口はほとんどなかった。結婚したらいろいろと不自由になることも考えて結婚はしなかった梅子だが、共に女子教育を目指していた同志の捨松が大山巌と結婚することを聞いてショックを受ける。捨松は決して夢を忘れたわけではなかったが、梅子としてはこれで捨松が教壇に立つことはなくなったことで、自分が独力でやるしかないということを意味した。

 そんな梅子に伊藤博文が声をかける。住み込みでの家庭教師として梅子を雇うと共に、新設された華族女学校の教師の職を斡旋する。しかし英語を単なる習い事と考えていて意欲の乏しい生徒達とのギャップに梅子は失望することになる。そこで梅子はアメリカで大学教育を受けることを考えるようになる。そして24才で再びアメリカに渡る。

 アメリカに留学した梅子は、英語の教授法を学ぶとして華族女学校では2年間の有給研究休暇扱いとなっていた。しかし2年後、梅子はさらに留学の延長を願い出る。華族女学校は延長は認めるが給料は出さないと返答する。それでも彼女は自費で延長する。彼女は生物学を大学で学んでいた。そこで彼女は研究に没頭する。彼女は留学の延長について「大学を卒業するため」と報告していたが、何を学んでいるかにはあえて触れなかった。そもそも彼女は英語の教授法を学ぶために両学したことになっていたし、当時の日本では明治天皇自身が「女子は高等教育を受けるべきでない」などと言っていた時代だった。

 

 

帰国して女子のための学校を設立する

 彼女は留学を延長しながら、日本女性が留学出来るための基金を作ることを目指す。彼女は女子教育に感心を持つ者達に基金の必要性をアピール、8000ドルの基金を集め、その利子で4年に1人女子留学が可能となった。また彼女のカエルの受精卵のスケッチは後にノーベル賞を受賞するモーガン教授との共同研究として雑誌に掲載される。学部長やモーガン教授は大学に残ることを梅子に勧めるが、彼女は帰国を選ぶ。この選択に大学関係者は怒り落胆したという。しかし彼女は日本の女子教育を行う意志が強かった。1892年、27才で梅子は帰国する。

 当時の女子の教育機関は小学校の上に高等女学校があったが、その上には女子高等師範学校の一校のみしかなかった。梅子は華族女学校に復帰したが、その一方で高等教育のための学校を設立しようとしていた。彼女は男性からの口出しを防ぐために、自力で学校を設立しようとし、その彼女をアメリカで基金設立に協力してくれた女性達が支援した。そして35才の1900年、華族女学校を辞職すると女子英学塾を開校する。学生は10人だったが、皆意識の高い者達だった。彼女はall-round womenとなるべきと英語以外の多様な学問を指導した。しかし学校は資金繰りに困り、あちこちに支援を要請する手紙を書き続けることになる。その彼女を留学先での友人や、留学仲間が支援した。繁子は職員として、捨松は顧問として協力する。彼女は卒業生が英語教師となって自立出来るようにと厳しい指導を行ったが、生徒達もそれについていった。その結果卒業生のレベルは高く、2年後には卒業生は英語教員資格試験を免除されることになる。

 そうして女子教育に尽くした梅子だが、1929年64才でこの世を去る。生涯独身であった。


 というわけで内容的には以前ににっぽん歴史鑑定で紹介していたものとほとんど差はないです。まあ英雄たちの選択で紹介されていた「梅子はリケジョだった」というのをやや盛り込んでいた程度です。

 しかしその内にまたほとんど同じネタを、今度は「歴史探偵」でやりそうな気がするな・・・。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・津田梅子は岩倉使節団と共に渡米した5人の女子留学生の1人として、6才で渡米して11年アメリカで生活してから帰国する。
・しかし帰国した梅子は日本語をほとんど忘れていた上に、アメリカと日本の習慣の違いに戸惑う。しかも日本では女子が活躍出来る場面はほとんどなかった。
・さらに女子教育のための学校を作りたいと夢を語っていた留学生仲間の捨松が結婚したことに衝撃を受ける。
・梅子は伊藤博文の紹介で華族女学校の英語教師の職を得るが、英語を習い事の1つとしてしか考えず、真剣味がない生徒達に不満を抱く。
・梅子は英語の指導法を学ぶとして再度渡米する。しかしそこで彼女は生物学を学んで3年後に帰国。その間に日本人女子の留学支援のための基金を設立する。
・帰国した梅子は35才の1900年、華族女学校を辞職すると女子英学塾を開校する。
・梅子の教育は厳しかったが、梅子の元で学んだ学生達が英語の教師として各地に赴任していく。そして女子教育に尽くした梅子は64才でこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ時代と戦った人と言うところですね。彼女のような先人が何人かいて、ようやく女子も男子と対等に扱われるようになってきたのですが。もっとも未だに前時代の化石のような人物もいますが。