教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

5/11 NHK 新プロジェクトX~挑戦者たち~「世界最長 悲願のつり橋に挑む~明石海峡大橋40年の闘い~」

夢物語と非難されながらも橋の建設を訴え続けた神戸市長

 明石海峡に吊り橋を世界最長の吊り橋を架けて淡路島を通じて本州と四国を繋ぐという壮大な計画について。

明石海峡大橋

 そもそも明石海峡大橋の構想をぶち上げたのは、1957年神戸市長の原口忠次郎だった。内務省に勤めていた原口は四国の物流の悪さによる過酷な状況を知っていた。四国との間に橋をかけて阪神の経済圏に結びつけるのは、阪神地区の繁栄のためにも必要だと考えていた。しかし4キロの明石海峡は潮流が早く水深も深いので橋桁工事が困難で、つり橋しか不可能だったが、当時はそんな長いつり橋など存在しなかった。夢物語だと批判されたが、原口は「人生すべからく、夢なくしてはかないません」と答えた。

 4年後、第2室戸台風に直撃された淡路島は逃げる場所もなく大きな被害を出した。しかも物流が悪く復興もままならない。そんな状況下で苦労する父を見ていた穐山正幸は橋のない島の哀しさを感じた。

 原口は何度も国に陳状を出し、さらには橋に関する資料を集めては各社に配っては協力を求めていた。しかしようやく橋の構想が動き始めた時にオイルショックで計画は頓挫、原口は計画の着工を待たずにこの世を去る。彼は橋の見える場所に葬って欲しいとの遺言を残していた。

 

 

海峡にケーブルを架ける課題

 その頃、神戸製鋼では穐山正幸が仕事に熱中できない日々を送っていた。入社3年目、日頃の言動が祟った穐山は異動を命じられる。それは日陰部署の架橋に関する部署だった。上司の三田村武はアメリカでのゴールデンブリッジを見て、それを超える橋をかけることを夢見ていた。そんな三田村は穐山に「これを読んでおけ」と資料を渡す。それは「調査月報」。原口がまとめた架橋技術に関する資料であった。これに今までやる気の無かった穐山が没頭する。そんな穐山に対して三田村は課題を与えては「あかんやん」と突き返す日々が続く。そして10年後、師匠と弟子となった2人に明石海峡大橋の建築が動き出すとの報が入る。

 橋を吊りげる強靱なケーブルが新日鉄と神戸製鋼でつくられた。しかし橋を吊すにはこれを37000本も束ねる必要があった。それをどうやって4キロの海峡にかけるかが課題だった。従来のワイヤーをかけてから束ねる方法では膨大な手間が必要だった。三田村は今までの現場で100本ほどの束ねたワイヤーをかける方法を開発していた。三田村は穐山にこの方法が可能かの検証を委ねて、自身は瀬戸大橋の現場に去って行く。穐山は早速実験を行うが、3000メートル過ぎでワイヤーに謎のたるみが生じてワイヤーの束がバラバラになってしまう。穐山はこの課題に頭を悩ませることになる。

 

 

秘策を繰り出して工事を進めるが、そこに大震災が

 明石海峡では主塔の建設が進んでいた。ケーブル架設を担当した現場監督の古田富保は神戸と淡路生まれの両親が交際に苦労したことを聞いていた。工事はまずパイロットロープを渡すことから始まるが、1日1500隻が行き交う明石海峡ではケーブルを引っ張った船を横断させることが出来ず、前例のないヘリコプターによるケーブル架設が実行されることになったが、海峡の風と戦う必要がある。これを託されたパイロットが44才の浅倉豊紀。第一線を退く年齢にさしかかっていた彼は、これを生涯最大の仕事と考えて挑戦する。浅倉は風に煽られながら2000メートルのロープを渡しきる。

 いよいよメインケーブルの架設が始まる。穐山はここでワイヤーを運ぶリールをギリギリまで大きくするという秘策で問題の解決に挑戦していた。そして無事に4000メートルにケーブルを渡しきる。

 しかしこの直後、阪神淡路大震災が発生する。橋桁が傾くようなことがあったら工事が頓挫しかねない。被害調査を実施したところ、海峡の幅が1メートル伸びていることが分かったが、橋桁の傾きは40センチ以内で問題がないことが判明、工事が再開されることになった。古田は現場に戻ると遅れていた工事を進めることにする。工期を短縮するために巨大クレーン船で橋桁とクレーンを一気に運ぶ巨大運搬作戦で工期の遅れを取り戻す。建設中の死亡事故は0で工事が完成する。

 1998年4月、明石大橋開通のイベントが開催される。多くの人々の悲願が叶った瞬間だった。これで四国からの海産物が数時間で阪神に届くようになる。その後神戸製鋼を退社して引退した三田村は穐山と碁を打つ日々を送り、古田は橋を見下ろす高台に眠っている原口の墓を参拝することが日課になっているという。

 

 

 という感動物語なんですが、明石海峡大橋はともかくてして、本四架橋が3コースも必要なのかというのは未だに議論のあるところです。明石海峡大橋は私も車や高速バスで通ったことがありますが、便利ではありますが通行料金が馬鹿高いのがネック。また徳島から大阪方面に物資を輸送するというのには有効なんですが、大阪方面から徳島にというと徳島は観光資源もしれているので、今ひとつ必要性が乏しい感があるのがネックです。

 なおこの時に現場をバリバリと体験した層は既にリタイヤ後かリタイヤ寸前。果たして今の日本がこの類いの巨大プロジェクトを実行できるノウハウが継承されているのかという辺りに一抹の不安も・・・。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・交通的に取り残されている四国を淡路島を通して橋でつなぐことで、阪神の経済圏と接続するという巨大構想を最初に掲げたのは神戸市長の原口忠次郎だった。当時は夢物語と非難されたが、それでも原口は生涯を通じて橋の建設の必要性を訴え続け、最後は「橋の見える場所に葬って欲しい」と言い残してこの世を去る。
・一方神戸製鋼の穐山正幸は異動させられた架橋の部署で上司の三田村武から、原口が集めたつり橋技術に関する資料を見せられて巨大橋の構想に魅せられる。
・そしてついに明石大橋の構想が動き始め、穐山は橋を吊すケーブルを渡す作業を担当することになるが、予備実験では束ねたワイヤーがたるんでバラバラなってしまうというトラブルが発生する。
・海峡では主塔の建設とパイロットロープを渡す作業が始まる。現場監督の古田富保は、通行量の多い明石海峡では船でロープを渡すのは不可能であることから、前例のないヘリによるロープを敷設を実施する。
・これを担当したのがベテランパイロットの浅倉豊紀。生涯最大の仕事としてこれに挑んだ彼は、風に煽られながらも無事にロープを海峡に渡す。
・そしてケーブルの敷設が開始される。穐山はケーブルを巻くリールをギリギリ最大にする作戦で問題解決に挑み、見事にケーブルの敷設に成功する。
・しかしここで阪神淡路大震災が発生、海峡幅が1メートルも広がる事態となったが、主塔の傾きは許容範囲内で工事は無事に再開される。
・古田は工期の遅れを取り戻すべく、巨大クレーン船で橋桁と同時にクレーンを輸送する秘策を実行、見事に工期の遅れを取り戻して予定通りに橋を完成させる。
・1998年4月、無事に明石海峡大橋開通のセレモニーが開催される。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあすごいプロジェクトだったんですが、上でも言ったように本当に必要だったのかには疑問もなくもない話です。なお私見としては、一番本州と近い瀬戸大橋ルートと、大阪方面に直結の淡路島ルートは必要性が分からなくもないのですが、しまなみ海道に関しては「本当に必要だったのか」には甚だ疑問があったりもします。
・実際に3ルートとも走ったことがあるんですが、淡路島ルートはそれなり通行料もあり、瀬戸大橋も通行量はまあまあで鉄道ニーズはそれなりにあるんですが、しまなみ街道に関しては通行量が極めて少なかったのが記憶に残ってます。

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